狂人日記

ある男の人生記録です

1神教と超自我と孔子症候群

1神教徒と超自我は密接な関係があるであろう。1神教とは唯一絶対の神を拝む宗教である。唯一絶対の神は全知全能である。従って人間の頭の中を覗き込むことも可能である。だから神の視点が超自我として内在化されたと思われるのである。超自我が先か1神教が先か知らぬが超自我は多分に1神教的体質を持ってると言えるだろう。超自我は監視役である。道徳的に自我よりも優位に立ち常に自我を監視しているのである。イエスは言う「汝頭の中で姦淫したものは実際に姦淫したことになる」と。イエスは観念的に人々の心の中に自分の視点を植え付けたかった思われる。イエスは神の子であり絶対的な存在者であるが故に視点を植え付け超自我を内在化させることが出来たのである。私も被害者だから分かるが私の事を洗脳した糞野郎は自分の事を絶対化していた。そして自分の考えを押し付けてくるのであった。自分の考えを押し付け視点を内在化する為には自分を絶対化させる必要があったのであろう。1神教も同じである。超自我としての視点を植え付けて内的に支配する為には唯一絶対の神が必要だったのである。だから1神教は超自我を植え付けたい衝動があったと思われるのである。実際のところユダヤ人にとって1神は重苦しかったのではなかろうか。全知全能という誇大妄想的観念は矛盾だらけだし(全知全能なら自分よりも強い存在を産み出せるはずである。しかし、自分より強い存在を産み出したら全知全能ではなくなる)反論の余地のない存在は重苦しいのではないか。そこで全知全能の神を疑いの余地のないものと思い込むことによって全知全能の神を信じるある種の自己欺瞞を働いたのではないか。岸田秀ユダヤ人はユダヤ教を押し付けられた為にユダヤ人とユダヤ教との間にしっくりこない齟齬があると分析していた。更にヨーロッパ人も同じであると分析する。ヨーロッパ人はキリスト教を取捨選択して取り入れたわけではなくローマ帝国キリスト教を押し付けられたのである。従って岸田秀はヨーロッパ人はユダヤ人以上にキリスト教との間にしっくりこない齟齬があると分析する。それが後のヨーロッパ人の過激な行動を説明するのではないかと分析する。実際暗黒の大航海時代はヨーロッパ人の復讐以外に説明がつきようがない。ヨーロッパ人は何をしたのかと言うと異教徒にキリスト教を押し付けて奴隷として異教徒を使役し資本主義が生まれヨーロッパは豊かになったのであった。ヨーロッパは非常に貧しくキリスト教を押し付けられキリスト教との間にしっくりこない齟齬があり、困難から逃れる為にキリスト教を押し付け彼等を奴隷として使役したのだ。ヨーロッパ人は不満の塊であった。そして遂に不満が爆発して復讐に走ったのだ。実に卑怯だがそうすること以外にヨーロッパは不幸から逃れられることは出来なかったであろうか。岸田秀はヨーロッパ人は本当はキリスト教を信仰していなかったと語っていたがこの分析は多分当たっているだろう。私も被害者だから分かるが実際に押し付けられたものはそれがどんなものであろうと押し付け返したい衝動に駆られ内的に信仰することは出来ないからである。

実際にヨーロッパ人は不幸であった。地面は固く農業に適さず家畜を生業とし生活は貧しくキリスト教を押し付けられたのだ。ヨーロッパ人はこの押し付けられたキリスト教が何なのか葛藤に襲われたのだろう。聖書はアホらしく信じるに値しないし魔女狩りは行われるは、神の視点が超自我として内在化されるはで最悪であった。戦争もしょっちゅう行い、なんと1000年の間に戦争をしてなかった期間は僅か1年しかなかったのである。これではキリスト教に懐疑的になるであろう。実際に超自我は重苦しかったであろうし、反論することが許されないキリスト教には潜在的に反発するだろうし、キリスト教から解放されたかったであろう。ヨーロッパ人がキリスト教を信じていなかった根拠として今では誰も教会に行かなくなったとヨーロッパ人は嬉々として掲示板に書き込んでいるのである。更にある修道院の人間が「神はいないと」書き残した文書が見つかったのである。自分達を不幸にするだけのこのキリスト教に懐疑的になったの当然であろう。私も被害者だから分かるが実際に超自我は重苦しいものである。一旦超自我として内在化されると中々超自我を払拭出来ないのである。それはそれは苦しかったであろう。やはり他人を犠牲にする以外にヨーロッパ人はキリスト教から脱することが出来なかったか。

私はこのブログで超自我がある種の閉塞感を生み出していると分析した。簡単にお復習すると超自我の役割を担ってた神が死んだ為に今度は人の視点が超自我の役割を担うようになったのではないかと言うことである。その超自我の役割を担うのは主に毒舌野郎である。日本では松本人志養老孟司、欧米ではセックス・ピストルズジョン・ライドンである。そしてその超自我が人々を監視し生きる活力を奪っているのではないかと言うことである。本当は皆自分を出して生き生きと自分の人生を生きたいのだが超自我の批判の目に晒されるのが恐ろしく中々自分に正直に生きる事が出来ないのである。私はこの超自我が人口調整としての役割を担っているのではないかと分析した。人口調整と言えば戦争やウィルスだが超自我もその役割を担っているのではないか。物事に批判的な人間の視点が超自我として内在化される為に生き生きと人生を生きる事が出来ず、生命力を奪うのである。実際に今は弱者軽視の時代であろう。自民党は弱者軽視の政権で富裕層を優遇してるアホな政権だしネットの世界も弱者叩きが酷い。何とも陰惨な時代である。超自我の時代と言ってもいい。社会的弱者の立場に立ち知的で賢く説得力があり視点の影響力が殆どない内田樹の書物が人気なのもその為であろう。

欧米ではキリスト教が滅びかかってる為に超自我の影響力は日本ほど強くないと思われるがしかし、毒舌野郎が多いのも事実である。それはジョン・ライドンであり、オアシスであり、エミネムである。ジョン・ライドンエミネムのことをラッパーとしては凄いと認めつつも歌詞の殆どはガキの戯言に過ぎないと語っていた。またオアシスのことも何の罪のないロックバンドとして評価しつつもビートルズからアイデアをパクっていると評していた。彼等の中ではジョン・ライドンが頂点に立ってるだろう。日本では松本人志の視点が超自我として内在化されたであろう。松本人志は「もう誰もあいつには敵わないと思わせたい」と語りまた「松本人志理想のお笑い王国を築きたい」とも語っていた。実に1神教的である。だから日本のネットで叩かれるのである。日本人には1神教的なものは合わないからである。養老孟司にも松本人志同様大衆の心に視点を植え付けたい衝動があったであろう。養老孟司の書物を読むとその文章の行間から自分の視点を植え付けたい衝動が見え隠れしている。今の時代は超自我争奪戦みたいになっており養老孟司はその流れに乗っかってるに過ぎない。

超自我争奪戦と語ったが確かに誰の視点が超自我になるか今は争われている時代である。主に毒舌野郎の視点が超自我になるのだが大衆は次は誰の視点が超自我になるか不安なのである。松本人志養老孟司、或いは欧米ではジョン・ライドンを越える人間が出て来て今度はそいつの視点が超自我になり自分たちを監視するのではないかと不安なのである。松本人志は「もう誰もあいつには敵わないと思わせたい」と語るが常に自分が1番でなければ気分が悪く自分より才能のある若手の台頭を恐れているのであろう。実はそれは大衆の総意なのである。超自我に皆怯えているのである。ある種の孔子症候群である。つまり後世畏るべしである。未来の毒舌野郎に皆恐れているのである。だから、自分が批判されるのが怖い為に批判される前に他人を批判し、皆批評家になり1億総批評家時代と言われているのである。それもこれも根底まで突き詰めて考えると原因は1神教である。1神教問題の解決は全人類的な問題であろう。養老孟司は「もういい加減にしてよ、という思いで唯脳論を書いたんですね」と語っていたがそういう他人を見下すような言い方をするから駄目なのである。そういう言い方は1神教徒のプライドを傷付けるはずである。私は思うに1神教徒は人類を恨んでいると思う。私を洗脳し超自我を植え付けた糞野郎も世間引いては私の事を確実に恨んでいた。その恨みの衝動が内面に視点を植え付けて内的に支配したい衝動を持ったのである。超自我として視点を内在化したい衝動を持つものは恨みや憎しみの感情を持つものだけである。だから、1神教徒は人類を恨んでいると思うのである。その根底に恨みを持つ宗教の克服は難しいだろう。更に1神教徒は劣等感や嫉妬心も強いだろう。ユダヤ教の神は嫉妬心が強く懲罰をする恐ろしい神である。劣等感や嫉妬心の補償作用として唯一絶対神を生み出したとしか思えない。私を洗脳した糞野郎も劣等感と嫉妬心の強い男であった。自分の事を絶対化していたがそれも私を支配する為の他に自身の劣等感や嫉妬心を補償したかったのであろう。で、唯脳論だが唯脳論は自然科学の書物である。従って1神教の解毒剤にはなりえないのである。宗教の解毒剤になり得るのは宗教だけであるからである。しかし、養老孟司の視点は強く松本人志の上を行っていると言ってもいいだろう。40年以上前に文壇にデビューした岸田秀松本人志より上を行っていると言ってもいいだろう。同じくジョン・ライドン松本人志より上を行ってると言ってもいいだろう。ジョン・ライドンは言う。「俺は自称天才を嫌う。あいつらは傲慢だ」と。上には上がいるのである。何故松本人志の視点が超自我として強力な威光を発揮したかと言うと松本人志は誰よりも大衆に視点を植え付けたい衝動が強かったからである。

超自我と言えばフロイトである。超自我という概念を提唱したのはフロイトである。今から120年以上前の話である。フロイトはエディプスコンプレックスが形成される4、5歳の頃に超自我が形成されると考えた。親の教育が厳しいと自分を監視し懲罰する超自我が形成されるのである。フロイトは実際の臨床の場面で強迫神経症の患者を分析してみると患者の多くが性的葛藤を抱えていたのであった。というのも当時のヨーロッパは今と比べものにならないくらい性的抑圧が強かったのである。欲望を満たしたい衝動が超自我によって妨げられて欲望を満たすことが出来ず、その満たすことが出来ない欲望がエスへと抑圧され、そのエスが自我を脅かし、回り回って別の症状へと変質し(例えば歩けなくなるなど)強迫神経症になったのであった。そこでフロイトは厳罰な超自我を緩め、もっと自分の欲望に忠実になりなさい、自分のことを許してあげなさいと患者を諭し治療した。患者は無意識へと抑圧された欲望に自覚的になりなぜ欲望がエスへと抑圧されたのか論理的に理解するとびっくりするくらい病的症状が治ったのであった。フロイトの本を読んでみるとまるで推理小説を読んでるような興奮を覚える。フロイトが病的症状の依って来る由来を分析するのは非常にスリリングで面白いのである。岸田秀は同時期にシャーロック・ホームズのような探偵小説が出てきたのと精神分析が出てきたのは関連があると分析していたがこの考察は当たっているかもしれない。

フロイトは恐らく世界で1番叩かれた人物であろう。しかしフロイト理論は正しかったであろう。フロイトは人間を超自我、自我、エスの3分方で説明した。フロイト理論によると超自我が権威や権力で、自我が大衆、そしてエスが大衆の抑圧された心理、或いは、欲望、それと不満を抱える社会的底辺であると分析したと考えてもよかろう。フロイトは個人心理を集団心理に当て嵌めて分析したと批判されるが、実はそれは逆でフロイトは集団心理を個人に当て嵌めて分析したのである。フロイトが提唱した様々な自我の防衛規制、同一視、投影、反復脅迫、アンビヴァレンス、合理化、すり替え、摂取、反動形成、転移、そして抑圧も集団心理として理解した方が分かりやすいのである。従ってフロイト批判者はフロイト理論を理解してるとは言い難いのである。当時からフロイトは叩かれまくってたが未だに理解されず叩かれているのである。それは未だにフロイト理論は影響力を持ってる証左でもあろう。養老孟司は個人と集団を分けて考えないのは私と岸田秀しかいないと語るが(私を含めて三人である)フロイトはなんと120年以上前に集団と個人を分けずに考えていたのである。驚くべきことだがフロイトはただ1人時代の遥か先端を走っていたのである。未だに集団と個人を分けずに考えるのは「とんでもな」ことらしいが、フロイトはそんな「とんでもな」事を120年以上前に考えていたのである。全くもって驚くべき人物としか言いようがない。その発想力の凄まじさは松本人志を凌ぐだろうか。フロイトが現代にいたら松本人志をどう分析したであろうか。内田樹は「私に確信を与えたのはフロイトマルクスです」と語っていた。で、フロイト超自我論だが私は今の時代は超自我争奪戦になっていると分析したが、仮に私の考えを誰か否定するのであれば今度はそいつの考えが視点となり超自我として威光を発揮することになるであろう。つまり超自我論を非難する理論が今度は新しい超自我になるのである。養老孟司ダーウィン主義を論じてダーウィン主義を否定するのであればそいつの理論が生き残ったとしたらダーウィン主義は正しいと言うことになると分析していたがそれと同じである。従ってフロイト理論は正しかったと言えよう。私の超自我論を否定すればそいつの理論が今度は超自我になると私は分析したのだから私の超自我が全超自我の頂点に立ってしまうだろう。否定すればそれが正しいと証明されることになるのである。

今の日本の閉塞感の原因は超自我にあると分析し、大衆はある種の孔子症候群に陥っていると分析したがそれもこれも原因は1神教である。1神教問題の解決こそ全人類的な問題であり、喫緊の課題であろう。厳罰な超自我は実に1神教的である。1神教があるから超自我があるんだか1神教と関係なく超自我があるんだか知らんが、岸田秀は「1神教が諸悪の根元みたいなんで1神教が滅べばいいんですけどね(笑い)」と語っていたがそういう見下した言い方をすれば益々1神教徒は反発を強めるだろう。彼等のプライドを傷つけ益々1神教に依拠するようになるだろう。宗教に対応するのは宗教だけだと説明した。従って日本の宗教と仏教は重要な役割を担っていると言えるだろう。日本人は1神教問題を解決する世界的役割を持ってると言えるだろう。希望は日本にあるのである。日本の抱える問題の根本原因も突き詰めてみるとやはり1神教に行き着くはずである。だから日本人が日本の抱える問題を解決出来た時に1神教問題を解決することが出来るだろう。いい加減に日本の抱える問題について真剣に考えようではないか。平和ボケしてる場合ではない。自民党では無理である。日本の場合自民党こそが諸悪の根元である。自民党は平気で嘘をつくし、日本を不況に陥れた張本人であり反社会的勢力でありやりたい放題である。民主党のほうがまだましであった。自民党が与党である限りにおいて日本は幸福になれない。皆で一致団結して自民党を引きずり下ろすべきである。そして日本から新しい価値体系、行動指針を作るべきである。それは無宗教の宗教的なそれにするべきである。有思想では駄目である。日本人が本気を出せば凄いんだぞと世界に見せ付けるべきである。日本には養老孟司がいて、岸田秀がいて、内田樹がいる。他にも有能な批評家が沢山いるが、私は亀井勝一郎にも影響を受けているが彼等が、欧米の批評家に負けてるとは思えない。岸田秀は日本人が思ってるほど欧米人は大したことないと語っていた。ビートたけしも最近の欧米のインタビュアーは馬鹿な事を聞いてくると語っていた。日本人はいい加減に欧米に対して劣等感を持つのをやめるべきであろう。松本人志は日本人が1番賢いと語っていたが(自分が1番賢いと言いたいのであろう)自民党は世界最悪レベルのアホな政権である。それもこれも日本に独自の行動指針がないからだ。日本は外部に信仰の対象を持つ変わった国でいい加減にそういうことはやめて日本人にあった行動指針を作るべきである。その時に初めて日本の第二の出発であり1神教問題も解決できるであろう。希望は日本にあるのである。いい加減に本気を出そうではないか。それは世界の為になるのだから。未来の日本人に想いを馳せようではないか。日本人を想うことは全人類を想うことと同じであるのだから。頑張ろうではないか。空は青々と晴れ渡り太陽は燦々と輝く。希望の光が差し込む。1神教が滅びる希望に向けて頑張ろうではないか。