狂人日記

ある男の人生記録です

相対主義は負ける。1神教と社会性についての簡素な報告。

私は基本的に物事を相対的に観察するが、だからと言って相対主義者ではない。私はありとあらゆるものに依拠しないことを信条としてるので相対主義者にならない。(このように考えることが実に相対的である。何も依拠しないが何も依拠しないという考えには依拠してると言える)相対主義的考えの対局にあるのが絶対主義である。絶対主義は思考が絶対化された思考様式である。1神教が典型的にそうだろう。一元論と言っても良いだろう。絶対主義者は~が全てと考える傾向がある。ビートルズの愛こそ全てという曲もあるが、これも絶対主義的思考から産まれた曲であろう。イマジンと言う曲がありあまり好きではないのだが、歌詞がみんな自分(ジョン・レノン)のように考えれば世界は平和になるのにと言う曲である。メロディは良いのだろうが、歌詞が受け付けない。何でお前と同じ考えを持たなくちゃならないんだ。それって実に強制力がある思考だぜと、思う。イマジンの中でジョン・レノンは宗教は必要ないと歌ってるがこの曲自体が宗教ソングであろう。宗教を否定出来るのは宗教だけだからである。少なくともジョン・レノンは自分の「思想」が「正しい」と「信じていた」であろう。宗教を否定してるように見えてその実宗教を信じてるのである。これは現代の科学者にも同じことが言えるだろう。科学者は言う。現代科学の理論に照応しない理論は便所の水と一緒に流れていってもらうしかないと。これは実に1神教的思考である。キリスト教以外の宗教は便所の水と一緒に流れていってもらうしかないと、言ってるのと同じである。科学は宗教を否定するが自分達が科学を信仰してしまってることに気付いてない。宗教を否定する場合は他の宗教を持ってくる他にないのだから、科学でもって宗教を否定するのは科学信仰であろう。

他にアートこそ全てとか、ロックこそ全てとか考えるのも絶対主義的思考様式である。甲本ヒロトはロック以外のものがなくなっても構わないと語ってたがこれも典型的に思考が絶対化されており、甲本ヒロトにとってはロックは絶対的なものなのだろう。私は何に価値を感じるかは人それぞれだよと言うが思考が絶対化された人間には通じない。同じくメンバーの真島正利もロック以外は大したことないと歌ってたが、これも典型的に思考が絶対化された症状であろう。何が良いかはまさに人それぞれであり、ある対象がそいつにとっては絶対的に見えても客観性があるわけではなく、そいつにはそう見えているだけのことに過ぎない。客観性はない。しかし、思考が絶対化された人間にはそんな「当たり前」のことが通じない。実に厄介な連中である。何が一番かは人それぞれである。(前にも語ったがハイロウズを解散に追い込んだのは私である。精神的に追い詰められた、甲本ヒロトと真島正利は思考が絶対化されたのだろう。人間は追い詰められると思考が絶対化するのである。1神教も追い詰められた背景があり思考が絶対化され産まれたのだろう)しかし、相対主義的思考の持ち主は絶対的思考の持ち主には敵わない。これは歴史が証明するところである。一体どうすべきか。養老孟司は一元論はいつかは崩壊すると語ってた。しかし、ユダヤ教が誕生して3000年経つが未だに崩壊しない。アメリカではキリスト教が強く福音派が(聖書に書かれてる記述は全て正しいと考える一派)1神教強しである。ヨーロッパではキリスト教は滅びかかってるが、キリスト教的思考は今でも全然生きている。そして、世界の中心にいて世界を支配してる連中も残念ながら1神教的人間である。岸田秀は1神教が諸悪の根元で1神教が滅べばいいんですけどね(笑)と語ってたがこの思考が実に1神教的である(笑)本当どうしたら良いのだろうか。

今の日本も1神教化してると言えるだろう。明治になり、大正に日本は文明開化となるわけであるが、先進的キリスト教ヨーロッパ文明を受け入れて150年経つがその間に徐々に日本人の深層の中に1神教的思考が流入してきたのであろう。今の日本には思考が絶対化された人間が多いと感じる。先に説明した甲本ヒロトも真島正利も知らず知らずの内にロックが絶対化されて1神教的思考を持ってしまったと言えるだろう。今の日本には私は1神教的人間が多いと考える。手塚治虫は一番病患者で他の人気漫画家に対する嫉妬が凄まじかった。彼も一番病を発病したのは1神教の影響があったであろう。自分が一番じゃなければ我慢できず野球漫画家の水島新司にですらも嫉妬してたらしい。哀れな一番病患者であると言える。自分が一番じゃないと我慢出来ないとか傲慢さも甚だしい。アメリカも哀れな一番病患者であろう。何事においても自分達が一番でなければ許せず他人を見下して優越感に浸る。この症状は他人をムカつかせるが、アメリカが発病したのは、もちろん1神教の影響もあろうが、劣等感もあるだろう。岸田秀アメリカ人が一番人類を恨んでると分析してたが確かにアメリカ人の祖先はヨーロッパで差別されていたプロテスタントであり、人類に対する憎しみは強いだろう。彼らがアメリカ大陸に渡りインディアンを大虐殺して国を作ったのであった。アメリカはどう考えても普通の国ではない。人類に対する深い憎しみや恨みがあると同時にインディアンを大虐殺した負い目と罪悪感がごっちゃ混ぜになってると言える。差別感情も非常に強いし確実に劣等感が強いだろう。だから優越感に浸りたがり人を見下して自分達が一番になりたがるのである。(アメリカは劣等感とインディアンを大虐殺した負い目と罪悪感の狭間で苦しんでる。優越感に浸りたいが罪悪感もあるから、かつて自分達がしてきたことを正義の行いと正当化して、自分達のしてきたことは間違いなかったと証明したい衝動に駆られて脅迫的に戦争をして、正義を証明したいのである。実に厄介である。世界有数の軍事大国でもあるから。アメリカは理念だけで成り立ってる国であってその理念が嘘の正義の元に成り立ってるので、何としても自分達のしたことが正しかったと思い込みたいのである。その理念が崩れたら理念だけによって成り立ってるのだからアメリカは滅ぶのである)

養老孟司は日本が1神教化してると言っていた。NHKが公平、中立、客観を説いていたので、お前は神かと言っていた。確かに人間は客観的で公平で中立的にはなれないものである。神じゃあるまいし、そこまでは客観的にはなれない。客観的認識と思ってる認識も客観的認識と思ってるところの主観的認識に過ぎない。人間は遂には客観的認識には至れない。これは、それこそ、「絶対的」に至れない。てめえの脳で下界を観てるんだから当然であろう。脳と言うフィルターが有る限りにおいて客観的にはなれない。全ての価値観、価値体系、思想体系も相対的なものであり、絶対的なものではない。絶対的と感じるのはてめえの脳がそう感じてるだけのことに過ぎない。

誰も社会性から逃れることは出来ない。集団と個人は同じである。従って私のように相対主義的に考える人間もいるだろうが立場は狭いだろう。どうやったら絶対主義的思考を打ち破ることが出来るだろうか。難しい問題である。アートとかロックとかは絶対化されても実害は殆どないし、恋愛も思考が絶対化されたもの同士が愛しあうが実害はないと言えるだろう。だから、これらのものは思考が絶対化されても、まあ、仕方がないかですむが、しかし、自分の考えが「絶対に正しい」とは思ってもらいたくない。何を好きになるか、何に価値を感じるかは人それぞれである。てめえの脳ミソがそれを一番に感じてるからと言って他人に押し付けてもらっては困る。私は押し付けがましい人間が大嫌いである。そういう連中は実にはた迷惑な奴等である。かつてのキリスト教やマルクシズムなんかそうであった。こういう連中に人類は蹂躙されてきたのである。勝ち目はなかった。

こと思想的な問題になると話は厄介である。アートとか音楽とか恋愛においてその対象が絶対的に見えてしまうのは、まあ、しょうがないとしても、思想の問題になると問題は厄介である。その思想が絶対化されれば、1神教やナチズム等が生まれてしまうだろう。これが、いかに破壊的で壊滅的だったかは歴史が示す所である。あくまでも個人的な事柄に関しては思考が絶対化されると才能が花開く面もあるから何もかも否定する者ではない。恋愛もそうである。人間を磨き強くする効果が期待できる。しかし、思想は良くない。絶対化された思想は絶対化されてるが故に人殺しを正当化するのである。自分達は「完全な」正義の立場にいるのであって敵は残滅すべき「悪魔」であり、人殺しした時の罪悪が正当化され、いとも簡単に人を殺すようになるのである。アメリカなんか典型的にそうであろう。思想にはそういった力があるから厄介なのである。岸田秀はびくびく怯えて人を殺せない自我こそが理想的だと言ってたがそういう自我を持つものは確かに理想的かもしれないが、1神教の対抗馬にはなり得ない。それと岸田秀は正義には憎しみが隠ってると語っていた。これは全面的ではないにしても部分的には当たってると思う。正義を口実にして人殺しを正当化してる連中は人間を憎んでるとしか思えない。正義感が強い奴が一番厄介である。私を洗脳して自分の支配下に置こうとした鶴崎も正義感の強い男であった。こいつは自分が一番だと思っており、他人を見下し、優越感に浸りたがる厄介な奴で、押し付けがましく、自分は完全に正しいと思っており他人の避難に実に非寛容で付き合いづらかった。全く忌々しい奴であったが私は鶴崎の押しに負けてしょうもない観念を植え付けられて未だに苦しんでいる。正義感の強い人間には近づかないのが身の為である。

一体どうすべきか。頭を悩ませてしまう。養老孟司はそういった連中に対抗する為には究極の普遍性をもってくる他にないと言う。その究極の普遍性とは何か?それは「常識」だと言う。つまり「当たり前」のことだと言う。仏教ではこれが「正しい」とは言わないが、養老孟司に言わせると真に「正しい人間」は最後に勝つと言う。私は何が正しいのかよくは分からんが、しかし、絶対主義的思考は誤りだと分かる。これは確信的に分かる。しかし、私は相対主義的に考える為に絶対主義的思考の人間には勝てる気がしない。実に不利だと思うのだ。私は養老孟司岸田秀のように賢くもなく知識も不足してるから、今から面倒くさいが勉強して人間の普遍的事柄について考えていこうかと思っている。終わり。