狂人日記

ある男の人生記録です

自民党と負い目。世界を変えたい。

今の日本は格差社会だが日本が階級化して貧乏人がそこから這い出せなくなったきっかけを作ったのは小泉、竹中だが、長期政権となった安倍政権時代になっても対して変わりなく格差は縮まらなあかった。多少豊かになり職につける人間も増えたようだが、安倍は自分の総理任期が最長になり、直ぐに辞めてしまった。自分のエゴを満たす為に安倍はコロナ渦においてアベノマスク配布等の愚行を行い対してコロナ問題において打開策を提示せずに辞めたのだ。アベノミクスは失敗であり、富裕層はますます豊かになり貧困層はますます貧しくなった。安倍は2回も消費税を増税し富裕層を優遇する政策を取った。従って日本は階級化し、それが固定化されてしまった。貧困層はなかなかそこから抜け出せずに、貧しさに喘ぐ日本が現出してしまった。貯蓄ゼロ家庭も多い。経済的問題から恋愛、結婚を諦める男性も増えている。従って日本はますます少子化が進み社会補償費も上がり対外的競争力も落ちるだろう。こんなアホな総理を日本人の約半分も支持してたのだから、日本はアホばかりかと思うが中にはまともな人間もいて、自分達が豊かに生きることが出来て一部の貧困層が貧しく苦しい生活を送ってることに関して負い目を感じてるのではなかろうか。日本人は全ては他人事と考える民族だが、負い目を感じやすい民族であって、例えば戦争から生きて帰れた兵隊が、口を揃えて自分だけ生き残り、死んでしまった兵隊に対してもうしわけないと言っていた。しかし、今は自己責任論が蔓延る時代で他人のことなんか知ったこっちゃないと考える人間が多いようだ。だから、負い目を持たないように見える。貧困も自己責任で片付けられてるが、この自己責任論事態が自分達だけが豊かに生きれてることに対して負い目を感じてることの証左である。可哀想だとは思うが優越感にも浸りく裕福なのが満更でもないから自己責任論を支持してるのだ。他人の不幸を見たくないのは余計な重荷を持ちたくないからだが、だからこそ負い目を感じるのである。優越感に浸ってると言ったが優越感に浸りたがるのは劣等感が強い者だけだが、その劣等感の根拠は日本がアメリカの属国であることに由来する。その屈辱を見たくないから、金持ちは優越感に浸り劣等感補償をしてるのである。ただの負け犬であろう。悔しいならアメリカからの属国を脱却する為にはどうするか真剣に考えるべきであろう。

日本は未だに一億総中流時代の日本を体現してるかのように見えるが、例えばテレビでは糞のセレブが持て囃されたりして、馬鹿もここに極まれりと言った感じだが、昔は羨ましいの一言で終わったが今では気分の良くない人間が多いだろう。底辺層の人間の屈辱を訴えてた宅間がネットでは神として崇められていたが、私も宅間には共感してしまう。こういう世間に恨みを抱いて大量虐殺する人間が日本から沢山出て来て今では日本は有事と言った感じだが、日本は明らかに狂ってるのに多くの日本人がその日本の負の側面を見ないようにしてるように見える。しかし、臭いものに蓋をして建前上は間ともで豊かな日本を演じてみても、実際に宅間や加藤や青葉のような人間は出てくるのであって、今の日本には宅間、加藤、青葉予備軍が沢山いるだろう。皆日本は狂ってることは気付いているのにその闇の部分には絶対に目を向けない。外面を良くするのは日本人の特徴だが、私は日本人のこういう側面が大嫌いだ。日本人は自分達の力で世界を変えたことはない。フランスやイギリスでは世の中に不満を抱える人々が立ち上がったし、フランスでは革命が起きて(フランス革命は誉められたものではないだろうが)、台湾でも大衆が立ち上がり民主化を成し遂げた。日本にはこういう自分達で世界を変えた歴史がない。国民の方から世界を変えることはない。何故そうなるのか。それは日本の文化の中心には何もないからである。立脚点となるものがないから、独自の、思想、哲学が生まれることがないのである。だから世界を変えることが出来ないのである。世界を変えるのは思想体系を変えることである。それなら、何か立脚点を持てという話になるが、持つ必要はない。中心に何もないことにはメリットが一杯ある。日本人が器用で順応性があるのも立脚点がないからであろう。世界が有事ならば矢継ぎ早に日本を変えることが出来る。それが明治維新で見事に近代化を成し遂げ欧米に対抗出来るようになった。これが利点である。中華思想を持つ中国は欧米人を見下し、近代化に遅れた。欠点は押しに弱いこと、外交下手なこと、流されやすいこと、そして国民の側から世界を変えたことがないことである。私は立脚点を持たない利点生かして日本人が芯の強い民族になることは出来ないか考えているのである。中心に何か持つことはその中心にある思想が絶対化されると1神教やナチズムになるだろう。これがいかにはた迷惑かは歴史が証明している。従って中心に何も持つ必要はない。

人間はその構造的本質として必ず、思想、哲学を必要とするのである。従って日本人も思想、哲学を持つのである。文化の中心に何もないのに一体何の思想、哲学を持っているのか。何もないじゃないかと言われそうだが、日本の思想、哲学は無思想の思想であり、無哲学の哲学である。神道があるが、あれは教義が何もない。無思想だから行儀が何もないのだろう。同じく日本の宗教は無宗教の宗教であろう。日本人が無思想の思想の利点を生かしつつ芯が強くなり自分の足で立って生きて自分の頭で考えることが出来るようになる為には日本の思想、哲学、宗教は無思想の思想であり、無哲学の哲学であり、無宗教の宗教であると自覚すること必要があるだろう。無宗教の宗教と言えば仏教であるが、無宗教から始まってそれを言語化したのが仏教であろう。そんな宗教が世界三大宗教の1つになった。だから、日本人も独自の思想を持つべきであろう。有思想では駄目である。これは欠点があるすぎる。それは歴史が証明している。無思想の思想を言語化するのである。それ以外にないのではないだろうか。日本を変えるのは思想的な問題であろう。