狂人日記

ある男の人生記録です

視点死刑 彼は見捨てられ恐怖があったのではないか?

彼の付きまとい、誹謗中傷、監視癖にはほとほと手を焼いたが、今にして振り返ってみると彼は見捨てられるの怖い病だったのではないかと気がしてくる。

わたしが人間不振に陥り誰とも会話しなかった時期があったことは確か前の記事にも書いたが、そんな時彼は
私の話し相手になってくれるのであった。
心優しき青年が私の為を思って話し相手になってくれるというはよりも、はっきしいって私に付きまとっていた表現の方がピッタリ当てはまっていたと思う。
当時はなぜそこまでわたしに付き添ってくれるか謎だったが、今にして思うと私にしがみついてたと思う。

授業の合間の10分やすみになると。大概の生徒は窓際に集まりわいわいと談笑したりするものだが私は窓際に行かず自分の席に座ってじっと10分休みが終わるのを待っていた。

すると、彼が私の席に来て話し相手に、なってくれるのである。

別に彼のことはつそんなに好きでもなく寧ろ重荷に感じているくらいだったから別に嬉しくもなんともなかったが、寧ろ此方が彼の話し相手になって付き合っているようにも受け取れた。

前の記事にも書いたが彼が私の家に私用で訪れた際に用件もすんで家に買えそうとすると、玄関扉に足をかけて扉を絞まらせないようにした。

心底ぞっどしたが、私は何かとんでもない人間を友人にしてしまったのではないかと非常に後悔した。

最初は自分から近づいて関係を深めたにも関わらず途中からいや気がさしてこちらから関係を切ってしまったのは何とも情けない話だが、会う度に誹謗中傷、自分を大きく見せるための誇大妄想的自慢話、これらのものが重荷にとなって自分にのし掛かってきた。

これ等の全ては私との関係を維持するための工作だったと今では思っているが、当時を振り返ってみると、明らかに自分の都合のことしか考えてない彼が見えてくる。

私は騙されていたのだと思う。彼が次の人間関係構築のために一時の間見えない鎖で私を常に繋いで逃げ出さないようにし、所謂キープ君としての役割を果たしているだけであった。

そしてそのことを心の何処かで知っているのである。当時の写真をみると、それなりに楽しそうにしているのだが(途中から仲間との関係が回復した)、どこか心の晴れないどんよりとしめった空気感が漂っており心の晴れない状態で全身に靄のかかっている感覚であった。

視点死刑 親との関係も悪化

彼が私に植え付けた観念群が親との関係でも邪魔をした。
親といるときですら『ふん。何が面白いんだ』『そんなTV番組面白くもないわ』といった具合にしらけた冷めた態度をとってしまうのであった。
私の母親は気が弱い人間だったから私のその態度に直ぐに屈服した。
バラエティー番組とかは好きで見る人でしょっちゅう大笑いしている人だったが私がそういう冷めた態度を取り出してから母親の笑いは消えた。
しかも、厄介な事に彼に言われた悪口等の非難を親にぶつけるのであった。
自分よりも強くて叶わない相手の不満を親にぶつけるのであった。
親にしてみればはた迷惑であったが私の場合不満の捌け口が親しかおらず、窒息寸前で合ったこともあって致し方がなかった。
親はもう亡くなっていないが当時の事を思い出すと心が痛む。親とはそんなに仲が良かったわけではないが、やはりそこは血の繋がりがある実の親。関係がそんなに良好出はなくても特別な繋がり感慨は持ってしまうもの。
私は母親と祖母の3人暮らしだったが、ここでは省くが些か親子関係に問題を抱えていた。

私の母親はTVドラマの『わたる世間は鬼ばかりしか楽しみがない』と言っていたが私がそういう覚めきった態度や彼に言われた悪口を親に言うようになってから、唯一の楽しみである渡る世間は鬼ばかりを見なくなってしまった。

私が彼に植え付けた観念に監視されて、TVも、ドラマも、映画も、音楽も、ゲームも素直に楽しめなくなったのと同様に私の親もTV番組等を素直に楽しめなくなっているかんじであった。

これも一種の転移現象で親を含めた他者との関係にずらされて反復的に繰り返されるのであった。

この反復脅迫にはほとほと手を焼いた。何も楽しめなくなるんだから。

未だにこの反復脅迫は完全に克服されておらず場が楽しい場面であればあるほど私は冷めきった態度をとってしまうのであった。

私はこんな自分が重苦しく大嫌いであった。私だってみんなと楽しみたい、彼女を作って恋をしてみたいという欲望は持つしあるのだか、なんというか恥の観念が邪魔をしてそれが出来ない。彼に小馬鹿にされるんじゃないかという恐怖が邪魔をして素直な行動に移せないのであった。

彼の視点がなければどれだけ楽か、彼の視点がない状態を創造してみるととてつもない解放感に包まれるのであった。
私にとって彼は重荷以外の何者でもなかった。

いまでも季節の変わり目になるとまだ心に些か自由がありそれなりに楽しめることがあった青年時代の思い出が甦り感慨深いものがあるがその時もほんの少しの時間の経過と共に過ぎ去ってしまい、憂鬱な毎日がはじまるのであった。

視点死刑 反復と転移 反復強迫

彼の植え付けた視点が私の対人関係で障害を引き起こすのであった。

『面白くないよ』『あんな奴等と付き合うんだ』『はずかしい、やめたほうがいいよ』等植え付けられた視点を元にして、対人関係で自分もそういう態度をとってしまう。

つまり例えば、誰かが授業中に冗談を言いクラスをどっと笑わせると私は『ふん、面白くない』という態度をとってしまうのであった。

本当は私も皆と一緒に楽しみたいのだが『恥ずかしい』という観念が邪魔をして皆と一緒に楽しめない

さらに、これは具合が悪いことに私のとる一連の態度『ふん、面白くない』『恥ずかしい奴等だ』等が周りに波及し、全体の雰囲気を、悪くしてしまうのである。

皆が楽しそうに談笑している時、皆が一緒になって大笑いしているとき等特に酷い、私は無表情で周囲から、一人浮いた存在になってしまうのてまあった?

当然周りの連中は、私の元には集まってこない。本音を言えば私も皆と混じって談笑したいのであったが視点が邪魔をしてそれができない。

しかも、周囲の雰囲気を悪くしてしまう。最悪である。未だにこの葛藤は克服されておらず、周囲が何かで盛り上がっている時等はクールなキャラを演じてしまう。

当然自分は楽しくないし周りも氷つかせてしまう。
わまりはそんな私に反抗するかのように無理して笑うか怪訝そうな態度をとるかどこはかぎこちない笑いをするのであった。

この陰鬱な態度のお陰で友達も恋人も殆ど出来なかった。
お気に入りの子が出来るとひたすら向こうから、こちらに話かけてくるのを待つのであった。
当然の如くそんな態度では彼女も出来るはずもなかった。
自分から声をかけるのが恥ずかしかったのと『そんな奴と付き合うんだ』という観念が邪魔をするために、声をかけることが出来なかった。(彼は他人の物を欲しがる体質がっあったため彼女を奪われてしまう恐怖もあった)
そこで、私は『彼女は向こうから此方に話しかけて来たのであって自分から話しかけたわけでははない?。仕方勝たなく話し相手になってあげてるのだ』という自分の中で合理化をし、そういう状況を望んでいた。当然彼女はできなかった。私だって人並みに、彼女が欲しかった。

楽しんだ思いでも殆どない。無論高校時代はそれなりに明るかったし楽しんだ思いでもいくらかあるのだが、精神にまだ幾らか余裕があったのと抑圧に成功したからである。

本格的に症状が悪化したのは高校を卒業してからであった。

辛い人生だ

私は神経症もちである。毎日が辛く苦痛である。神経症になったのはもちろん親の影響だが、親がもうちょっと人の気持ちの分かる人だったら私は神経症にならず済んだであろう。
重度の精神病者なら例えば分裂病者なら病は重いのだろうが精神的な苦痛はないのではないか。重度の精神病者になる一歩手前の神経症の段階が一番精神的には辛いのだと思う。胸の中心、横隔膜がきゅっきゅっと締め付けられるような苦しみである。不安と孤独感が入り交じったような苦痛であるがこの苦しみに長いこと苦しめられてきた。救いは何処にもない。一生この苦しみと共に生きるのだろう。

私の母親は変わり者で愛情が薄かった。そんな母親と二人きりで生きてきたのだから病的な自我を形成するに決まっているのである。私の母親は他人の気持ちが絶望的にわからない人で自分の気持ちを理解されたと思ったことは1度もない。自分勝手で自己内世界で全てが完結しているような人であった。
どんな人間でも例えば他人の表情からその人間が苦しんでいるのかとか、悲しんでいるのとか分かることである。しかし、私の母親はそれが全くわからないのである。だから私は母親と一緒にいるのが苦痛でしかなかった。母親と一緒にいると言い様のない不安に襲われるのであった。私の母親がちょっとでも人の気持ちの分かる人だったら私はここまで苦しむことはなかったであろう。私の母親は子供の頃自分は捨て子なんじゃないかと疑うくらい他の兄弟と差別されて育ったから自分の気持ちを理解されたことは一度もなかったのであろう。それで他人の気持ちがわからない人間に育ったのであろう。私の母親は色々と可哀想な人間なのである。両親の愛情に餓えてたのは確実でどうも他の兄弟と違って自分だけ差別されて育ったようなのである。子供の頃に両親に愛されずに育った人間は自分が子を授かると子のことを愛せなくなるようである。私は母親から愛情なるものを感じたことは1度もない。強烈な愛情飢餓状態で生きてきたのであった。

毎日が辛く苦しい。精神的に安定することは殆どない。不安は常時である。なんで俺だけこんな辛い目にあわなきゃいけないのかとしょっちゅう思う。
解決策はどこにもない。産まれてくるんじゃなかったとよく思う。愛情たっぷりと注がれて育ったガキが羨ましい。何で俺はこんな家に生まれちまったのか。そんなこと嘆いてもしょうがない。生まれは選べないのだから。父親の精子が卵巣に届いた時点で私が生まれることは決定づけられていた。悲劇なんてものじゃない。私の父親は家族持ちだった。つまり私は不倫の末に生まれた男なのである。そして母親は頭が悪く愛情がなかった。私の人生が困難に道溢れたものになるのは運命づけられていたのである。この身を焦がすような地獄の苦しみから逃れることは出来るのだろうか。私は出来ないような気がする。恐らく一生ものの苦しみであろう。せめて父親がいれば母親が変わり者でも父親の自我を吸収して安定した自我を築くことが出来たであろう。しかし、私には父親はいなく、年に2、3回会う程度であった。父親は母親と違って比較的間ともな自我を築いていたと思う。

母親1人だったので家は貧しかった八畳ひと間の狭いアパートに住んでいた。風呂場はなかった。家は貧しく愛情に餓えていて私は劣等感と嫉妬心の塊であった。友達の数も少なかった。いることはいたが2、3人程度である。それなりに楽しかった思い出もあるがほとんど1人で遊んでたような気がする。
何とも寂しい人生だ。辛い。辛すぎる。胸が締め付けられて苦しい。こんなしょうもない人生でも現実を受け入れて生きていくほかにないであろう。ああ、辛い・・・産まれてくるんじゃなかったとしか思えない。ああ、毎日が辛い。今日も深いため息が漏れる。ああ、辛い。

母親がアホ過ぎた

私の母親のことは何回か語ったが私の母親は馬鹿であった。それもかなりの馬鹿であった。一体どういう教育を受けたらここまで馬鹿になれるのか不思議なくらい馬鹿であった。
母親の話によると子供の頃は自分は捨て子と思うくらい他の兄弟と違った態度を親にとられてたらしい。どうも私の母親は兄弟の内自分だけ愛されなかったようである。親戚の話によると、私の母親は子供の頃から僻み根性が強かったらしい。僻み根性が強くなるのは生まれつきではなくちゃんとした理由があるわけで両親から愛情を受けずに育った為である。私の母親は姉の教科書を隠す愚行に出ることもあったらしいのだが、それも姉だけ愛情を受けて自分は愛してもらえない嫉妬心からくる行動だと思われる。
それで、子供の頃に愛情を受けずに育った子供は大人になり自分が子供をもつと愛せなくなるらしい。私は母親から愛情を感じたことは一度もないし、自分の気持ちを理解してもらえたと思ったことも一度もない。ガキの頃から孤独感は常時であった。しかも私は変わり者で自分ではそんなに変わってると思ったことはないのだが、どうも周りから変わり者に見られていたようである。私が変わり者になったのは勿論母親の影響である。子供の頃は当然気付かないのだが私の母親は変わり者であった。
どう変わってるか言葉で説明するのは難しいのだが普通の人間とどこか違うのである。母親が生きている間に2度葬式があり2度とも同じ住職にお経を読んでもらったのだが2度目の葬式の時に住職が私の母親の事を覚えていて、おじさんが「○○は変わってるから住職に覚えてもらっていたのだろう」と語ったことを覚えてる
確かに変わっていた。どう変わっていたか。言葉で説明は難しい。とにかく変わっているのである。
そんな母親と2人きりで生きてきたから当然私も変わり者になるのである。子供の頃を振り返ってみると確かに変わった行動が多かったし、変わり者に見られていた。

で、母親のことだが相当劣悪な環境で育ったとしか思えないのである。自分は「捨て子」なんじゃないかと疑うくらいだから他の兄弟とは相当差別されて育てられたのであろう。両親が喧嘩してる時に自分が止めに入ると喧嘩はやめないが姉が止めに入ると喧嘩を止めることがあったらしい。

私の母親が両親の愛情に飢えていたのは確実である。その中でどう育ちどういう自我を築いたのかが問題である。両親から愛情を得られないのだからまず、両親を反面教師にして自我を築く以外にない。そこを立脚点にして足場を作る他にない。しかし、私の母親はどうもそういう仕方で自我を築いたようではないようである。私の母親が地元から離れて神奈川の高校に入学したさいに中々友達が出来ず寂しい思いをしてたことがあって泣きながら母親に寂しいと手紙を書いているのである。普通両親から愛されずに育ったのなら母親に手紙を書く筈はない。しかし、母親は手紙を書き手紙を受け取った母親も私の母親に対して手紙を書き送っているのである。それは励ましの手紙であったらしい。このことから、私の母親は恐らく両親からアンビバレントな態度を取られていたと思われるのである。このようなどっち付かずな態度を取られた者は自我の立脚点を持つことは出来ない。ただ嫌われていただけならそれは辛いものだが嫌われてる事実を直視し、そこを足場にして心に立脚点を持つことができる。しかし、親の態度に一貫性がない場合自分の中に立脚点をもつことはほぼ不可能である。私の母親は両親からの愛情に飢えてたのは確実であるが、その一方でたまに両親から優しくされたことがあったのではなかろうか。そうすると自分は親から愛されてるのか、嫌われているのかわからなくなる。分裂病のような自我を築くであろう。確かに私の母親は人と接する時に全てが上部だけであった。親戚が家に遊びに来たときは物凄く明るく振る舞うのだが親戚が帰ると突然葬式のように暗くなるのである。当然私に対しても接し方は上部だけであった。私は子供の頃は母親に愛されてると思ってたがそれは当然思い違いであった。しかし、母親に愛されてると思うだけの根拠はあるから、愛されてると思うわけでこれも母親の態度に二重性があった為と思われるのである。つまり、時に優しく時に冷たいのである。だから私は母親に愛されてるのか、愛されてないのかわからなかったのではなかろうか。勿論愛されてると思い込んでるから、母親の態度にそう思わせるだけの根拠があるのである。それは上部だけの愛情であった。母親と一緒にいると、言い様のない孤独感に襲われるから母親の愛情はインチキであった。そして私は母親の自我を吸収して自我を築いたから私も自我が分裂したと思われるのである。私は母親の愛情に飢えていて更に分裂病的な自我を築いたのである。分裂病は今では統合失調症と呼ばれ脳の疾患と思われているが私の場合心理学的に説明がつくのである。

それで母親の話に戻ると私の母親も自我が分裂ぎみだったと思われるが、私は母親と一緒にいると言い様のない不安に襲われるのであった。孤独感と不安が入り交じったような感情である。これが物凄く辛く、精神的、或いは肉体的危機に瀕すると世界に自分1人しかいないような強烈な不安が襲ってくるのである。私は全ての人間と上部だけで付き合っている事実を突き付けられるような不安である。自分は1人ぼっちなのだ。誰からも愛されておらず愛されていると思ってたのは思い込みだったのだ。そして母親に実は愛されてなかった事実を痛感するのである。母親に上部だけで接しられ、愛情がないのであるから私は母親との関係が、他の人間との関係にずらされて、再現されるのである。そして母親に愛されてなかったから自然と人を愛せないのであった。それで今まで説明してきたことからも明らかなように両親に愛されてなかった私の母親の関係性が私との関係にずらされて再現されてるのである。祖母から私にまで至る過程においてアンビバレントな精神状態が一直線に綿々と受け継がれてきたのであり、それ以外に説明のしようがない。私の祖母、つまり母親の母親も精神が分裂ぎみだったと思われるのである。実際に母親の姉も分裂ぎみであり優しい人間なのか冷たい人間なのかよくわからないのであった。わたしの母親も同じである。そんな母親と二人きりで生活してきたのが痛すぎた。まともな親父がいれば違ったであろう。しかしいなかったものはしょうがない。親父とは年に2、3回会う程度であった。

そして私の母親は死ぬほど馬鹿であった。信じられないくらい馬鹿であった。私が仕事を辞めて、次の職場を探そうと思っていたのだが、前にも説明したが母親は私が辞表届けを提出したその日に相当ショックを受けたのか自分だけ働くのが馬鹿らしくなったのかその日は仕事を休んでいるのである。で、次の日に仕事から帰ってきた母親の第一声が「面接言ってきた?」である。私は唖然とした。仕事を辞めた次の日にどうやって面接に行けばいいのか!私の母親は私が仕事をすることに価値をおきすぎであった。ちょっと信じられない。仕事を辞めるということは勿論次の仕事を探して就職する前提で辞めてるわけである。
母親はそれくらいは理解してると思っていた。しかし母親は私の事を信頼してなかった。それが辛かった。この人は私の事を自分に取って都合のよい人形のように思っていたのではなかろうかと疑ってしまうのである。
私は自由を満喫したかった。好きな時に働き嫌になったら辞め次の仕事をさがす。20代の頃はそれで良いと思っていた。好きな時に働き空いた時間は遊ぶ。そして本格的な職探しは30代に入ってからでも遅くないと思っていた。しかし、私の母親はそれを許さなかった。私に直ぐに働いてもらいたかったようである。その事が私にとってはとてつもない重荷であった。仮に働く事に疑いがあったとしても、1週間くらい様子を見る余裕はなかったのか。1週間くらい様子を見て働かなかったら私に「働かないの?」と聞けばよかった。で、そういうことがあって働くのが嫌になり私はニートになるわけであるが、それから1年たったある日のこと私の母親は私に対して「もう充分遊んだでしょ」と言ってきたのである。私は働く気があり、母親の一言でやる気を失ったのに、母親は私が遊んでいるようにしか見えなかったようである。とんでもない馬鹿だ。ありえないレベルである。ここまで馬鹿な親は他にいないのではないか?それでますます働く気が失せてしまった。私の母親がもうちょっと賢く、他人の気持ちのわかる人だったら私の母親はここまで苦労することはなかったであろう。結局私が無職になり苦労するのは母親である。母親が私の気持ちを理解すれば私は働いたのである。どうしようもない馬鹿だ。こんな馬鹿ちょっと見たことない。
私に対して「働かないの?」と聞いてきたことは一度もない。何で聞かないのか?子供が働かず1日の内ほとんど家の中にいることに危機感はもたないのか。子供のことが心配にならないのか。本当に馬鹿だ。結局私の母親は病気になって死ぬのだがはっきし言って自業自得である。私に罪はない。

おっさんになった今、若い頃をよく振り返る。私が働く可能性はなかったのか。私の側に原因はなかったか、等考えるがどう考えても働く可能性はなかった。親が変わる以外になかった。そして私の母親は全くと言っても良いくらい変わらなかった。私は思う。20年以上も無駄に生きてきて後悔だらけの人生である。何で俺はこんな目にあわなきゃならないのかと。納得出来ない。母親には私の人生を返してくれと言いたい。しかし、母親はもういない。私の思いは虚しく何処にも届かず宙をさ迷いつづける。
無駄にした20年はどうやっても帰ってこない。虚しい気分だ。母親が私の立場に少しでも立って考えれば私の未来は違ったものになったであろう。私は仕事をし、働いて得た金で好きな物を買う自由を満喫出来たであろう。何で私の母親は一言も私に働かないのか聞かなかったのであろうか。全く謎である。いずれ、働くと思っていたのであろうか。しかし私は母親のことがむかついて毎日殴りまくっていた。私の気持ちを分かってもらいたかったからである。しかし私の母親は私の気持ちを理解することはなかった。母親1人子1人だから経済的に圧迫してくるのは明らかなのに何故私の母親は「働かないの」と聞かなかったのか。全く謎である。何を考えていたのかわからない。母親は自分に罪があるのを分かっていてその事実を突き付けられるのが嫌だから私に働けと言わなかったのかも知れない。普通愛情があれば子の未来を案じ子供が働くように働きかける筈である。しかしそういうことは一切なかった。
で、私の母親は私の暴力に耐えかねて家を離れて一年間ほど友人の家に逃げてるのである。その間私は母親の仕送りでやりくりしながら生きていた。本当に馬鹿だ。そんなことをせずに母親は私が働くように働きかければよかったのである。経済的にピンチになるのも目に見えてる。実は私の母親は1000万の借金を抱えていた。本当に馬鹿だ。私が何故働かなくなったのか思い返し、その理由を考察してみればよかったのである。しかし、それが出来ないのもやはり自分の罪を認めるのが嫌だったのではなかろうか。たったそれだけのことで1000万円もの借金を抱えたのである。生活費が足りなくなった時に何故私に一言も相談しなかったのか。一体何を考えているのか。意味不明である。私に生活費が足りないと相談して私を働かせればよかったのである。私だって働いて遊びたかったのである。現状には全く満足していなかったのである。何故そんな簡単な事がわからないのか理解不能である。失った時は帰ってこない。私は後悔の連続である。別の家庭に生まれればよかったとしょっちゅう思う。しかし、そんなこと考えても現実は変わらない。現実を受け入れる他にない。若い頃にしたかったことが母親のせいで何もできなかった。更に視点死刑で述べたように私は友達にトラウマを植え付けられていた。二重苦である。20代の頃は葛藤の地獄であった。どこにも解決策はない。ただ時だけが過ぎていく。出口はどこにもない。そうやって生きてきたら気づいたらもう何もかもが手遅れのおっさんになっていた。生きるのが辛すぎる。こんなに辛い目に合うなら生まれてこない方が良かったと最近よく思う。私の人生は苦しみの連続である。他の人間が青春を自分の人生を謳歌してる中で私は1人悶々と苦しんでいた。母親の存在は絶望的であった。辛すぎる。何で俺だけこんな目にあわなきゃいけないのか。納得出来ない。母親がもうちょっと人の気持ちのわかる人だったら私の人生は違ったものになったであろう。虚しい気分だ。

視点死刑 文句を言いたくて仕方がなかった

私は彼に人格や趣味を散々否定されまくったわけであるが、文句を言い返すことが一度も出来なかった。その都度文句を言い返せてればここまで苦しむこともなかったであろう。彼は私が文句を言い返せないことに味をしめたようで私にだけ高圧的な態度をとってくるのであった。私以外の人間にそういう態度をとったら嫌われるのがわかっているから、私にだけそういう態度をとってくるのである。彼の言うことには間違いがないと洗脳されていたから何も言い返せなかったわけであるが無意識的には彼の言動に不満を感じ、当時の私は文句を言い返したくてたまらなかったと思われる。言い返したくても言い返せなかった不満が心に溜まり私の事を苦しめた。

何て言うか言葉で説明するのは難しいのだが、言い返せなかった言葉達が心の中で淀み心の流動性を奪ったんじゃないかって気がするのである。何も言い返せなかった苦しみがフラッシュバック現象のようにその都度その都度甦る。これが私の足を引っ張るのである。私の不満はマックスであった。彼の事が憎かった。彼に対する憎しみも抑圧してたから無意識的本音としては彼に対する不満だらけでもう爆発寸前であった。

彼は自分の事を絶対化してるわりには言ってることに疑問符がつくことが多かったし矛盾だらけでどちらがお前の本音なんだよと言いたくなることが多かった。しかし、私は彼に不満を言えなかった。実に屈辱的で悔しい限りである。もっと文句を言えてればここまで病むこともなかったであろう。

彼は口を開ければ自分がいかに優れた人間かことあることに語ったし他人の悪口も結構多いし、勿論私のことを否定しまくった。彼が自分の事を絶対化し自慢話をするときは本当に自分に酔いしれており、実に忌々しい限りであった。今思い出しても腹が立ってくるが、文句を言えなかったのはしょうがない。

私がもっと強く賢ければ良かったんだ。彼は言い返せられれば何も言い返せない性格であった。だから、私が何も言い返せないように高圧的な態度に出たのであろう。彼は私が思っている以上に強い人間ではなかったのかも知れない。彼がある人物と口論になり言い負かされたところを見たことがある。彼は言い負かされたその後に自分の事を言い負かせた人間に謝っているのである。私も言い返せば良かった。この何も言い返せない屈辱が私の人生を狂わせた。彼に言い返せないとしても彼に対する不満を友達に話せれば良かったが、私は屈辱を飲み込むだけで誰にも文句を言えないのであった。文句を言えない状態は辛いものであった。悔しかった。屈辱的であった。彼は恐らく自分に大して自信がなく、口論になっても簡単に論破されると思っていたのであろう。そこで何も言い返せない私が餌食にされたのであろう。かれのストレス発散用の受け皿として存在しているようなものであった。せめて彼に対する不満を誰でもいいから語る事ができてればよかった。

彼にトラウマを植え付けられて25年。この間にしたいことがほとんど何も出来なかった。自信も奪われたし、洗脳されていたので彼の言いなりのロボットのようであった。戻れるのであれば今の記憶を保持したままあの頃に戻りたい。しかし、時間は止まらず流れ続けあの頃に戻ることは出来ない。実に悔しい。トラウマを克服出来てももういい歳したおっさんである。泣けてくる。彼は私が25年間ほとんどしたいことが出来ない私の不幸が満更ではないであろう。劣等感補償としての嫌がらせだったと思われるからである。私は絶望と敗北の内に人生を終えるのであろうか?それはわからないが、彼は私にした事に関しては何とも思ってないようである。実に非情で腹立つ限りだ。彼のせいで私は一度しかない青春時代を無駄にしたのだから。叩き殺してやりたい気持ちで一杯である。しかし、叩き殺してやったところで失った時は戻ってこないわけであるが・・・。
悔しい。本当に悔しい。私がもっと強く賢ければこんなことにならずに済んだのに。私の未来は絶望しかない。

視点死刑 心の中心に居座られた

ありとあらゆる観念を植え付けられた話しはしたがその観念が私の心の中心に居座わってしまった。
そうすると今まで自分にとって都合の良いというかしっくりくる観念を元に生きてたのが他人の観念が横から入ってきて私の足を引っ張るようになってしまった。そして、自分の好きな物や好きな事を内面化しようとすると横から入ってきた観念が弾き出すのであった。何も内面化できない。これは全てのことに関して邪魔するのであった。例えば何かを覚えようとする時も邪魔するのであった。それで物覚えが酷く悪くなりパソコンは打てないし車の運転も出来ない人間になってしまった。(車の免許は取得したが)で、その植え付けられた観念は消そうとしても消えない。いや消そうとすればするほど心にまとわりついてくるのであった。これは非常に厄介な観念であった。何も出来ない、何も楽しめないのであった。
私は窮地に立たされた。仕事もろくに出来ない人間になるし例えばテレビを見て楽しいと感じても素直に楽しめない。音楽を聴いても、本を読んでも楽しめない。私は植え付けられた観念に苦慮した。
辛かった。本当に辛かった。今でも観念に苦しめられて辛い。いつまでこの苦しみは続くのか。全くやってられない。私はこの植え付けられた観念に20年以上苦しめられたきたわけである。

彼に観念を植え付ける意図があったかどうかだが私はあったと思う。ありとあらゆる観念を植え付けて私を遠隔操作しようとしたのではないか。彼は私の目には自分の都合のことしか考えているようにしか見えなかった。前にも語ったが彼は自分の趣味とかを私にしつこいくらい奨めてくるのであった。「何々が理解出来ない奴は馬鹿」と言って私に奨めてくるのであった。私には有り難迷惑な話で彼の趣味などどうでもよかった。自分の趣味に時間を割きたかった。しかし、彼は私の人格改造を目指してたとか思えずありとあらゆる観念を植え付けてくるは、趣味を押し付けてくるはで私は窒息寸前であった。そして観念が何をするんでも邪魔するので鬱陶しくてしょうがないのであった。未だに私の心の中心に彼が植え付けた観念が居座っている。

彼が植え付けた観念は
・俺の事を尊敬しろ、崇拝しろ
・俺が認めたものだけが正しくそれ以外の物は身に付けてはならない
・俺の事を非難してはならない、他人に告げ口をしてはならない
・俺の都合に付き合い何事も優先すべきである
等である。

更にこの植え付けられた観念が視点に変質して私を監視するのであった。まさに視点刑罰である。彼は確実に私との関係を繋ぎ止めておく為に観念を植え付けたのは確実だとおもう。自分の目が届かない場所で自分の都合の悪いように動くのを静止する為に。

彼は私に冷たい態度をとられてから焦ってるようであった。酷く傷つき落ち込んでいるようであった。私には何故そこまで焦ってるのか謎であった。そして、彼は涙ながらに友情を復活しようと四苦八苦し始めるのである。それはまるでいじましい努力であった。
それが私にとっては重荷でしかなかった。彼は私の趣味を否定して自分の趣味を押し付けてくるし、態度が悪くまるでわがままな悪ガキのようであった。

とにかく私の心の中心に居座ってしまった観念は消すことは不可能である。そうかと言って何も絶望する必要はない。観念がどういう過程、どういう理由で植え付けられたのかを表面化することによって自分の支配下に置くことが出来る。難しい事ではあるがやるしかない。それで大して幸福になれなかったとしても。