狂人日記

ある男の人生記録です

母親がアホ過ぎた

私の母親のことは何回か語ったが私の母親は馬鹿であった。それもかなりの馬鹿であった。一体どういう教育を受けたらここまで馬鹿になれるのか不思議なくらい馬鹿であった。
母親の話によると子供の頃は自分は捨て子と思うくらい他の兄弟と違った態度を親にとられてたらしい。どうも私の母親は兄弟の内自分だけ愛されなかったようである。親戚の話によると、私の母親は子供の頃から僻み根性が強かったらしい。僻み根性が強くなるのは生まれつきではなくちゃんとした理由があるわけで両親から愛情を受けずに育った為である。私の母親は姉の教科書を隠す愚行に出ることもあったらしいのだが、それも姉だけ愛情を受けて自分は愛してもらえない嫉妬心からくる行動だと思われる。
それで、子供の頃に愛情を受けずに育った子供は大人になり自分が子供をもつと愛せなくなるらしい。私は母親から愛情を感じたことは一度もないし、自分の気持ちを理解してもらえたと思ったことも一度もない。ガキの頃から孤独感は常時であった。しかも私は変わり者で自分ではそんなに変わってると思ったことはないのだが、どうも周りから変わり者に見られていたようである。私が変わり者になったのは勿論母親の影響である。子供の頃は当然気付かないのだが私の母親は変わり者であった。
どう変わってるか言葉で説明するのは難しいのだが普通の人間とどこか違うのである。母親が生きている間に2度葬式があり2度とも同じ住職にお経を読んでもらったのだが2度目の葬式の時に住職が私の母親の事を覚えていて、おじさんが「○○は変わってるから住職に覚えてもらっていたのだろう」と語ったことを覚えてる
確かに変わっていた。どう変わっていたか。言葉で説明は難しい。とにかく変わっているのである。
そんな母親と2人きりで生きてきたから当然私も変わり者になるのである。子供の頃を振り返ってみると確かに変わった行動が多かったし、変わり者に見られていた。

で、母親のことだが相当劣悪な環境で育ったとしか思えないのである。自分は「捨て子」なんじゃないかと疑うくらいだから他の兄弟とは相当差別されて育てられたのであろう。両親が喧嘩してる時に自分が止めに入ると喧嘩はやめないが姉が止めに入ると喧嘩を止めることがあったらしい。

私の母親が両親の愛情に飢えていたのは確実である。その中でどう育ちどういう自我を築いたのかが問題である。両親から愛情を得られないのだからまず、両親を反面教師にして自我を築く以外にない。そこを立脚点にして足場を作る他にない。しかし、私の母親はどうもそういう仕方で自我を築いたようではないようである。私の母親が地元から離れて神奈川の高校に入学したさいに中々友達が出来ず寂しい思いをしてたことがあって泣きながら母親に寂しいと手紙を書いているのである。普通両親から愛されずに育ったのなら母親に手紙を書く筈はない。しかし、母親は手紙を書き手紙を受け取った母親も私の母親に対して手紙を書き送っているのである。それは励ましの手紙であったらしい。このことから、私の母親は恐らく両親からアンビバレントな態度を取られていたと思われるのである。このようなどっち付かずな態度を取られた者は自我の立脚点を持つことは出来ない。ただ嫌われていただけならそれは辛いものだが嫌われてる事実を直視し、そこを足場にして心に立脚点を持つことができる。しかし、親の態度に一貫性がない場合自分の中に立脚点をもつことはほぼ不可能である。私の母親は両親からの愛情に飢えてたのは確実であるが、その一方でたまに両親から優しくされたことがあったのではなかろうか。そうすると自分は親から愛されてるのか、嫌われているのかわからなくなる。分裂病のような自我を築くであろう。確かに私の母親は人と接する時に全てが上部だけであった。親戚が家に遊びに来たときは物凄く明るく振る舞うのだが親戚が帰ると突然葬式のように暗くなるのである。当然私に対しても接し方は上部だけであった。私は子供の頃は母親に愛されてると思ってたがそれは当然思い違いであった。しかし、母親に愛されてると思うだけの根拠はあるから、愛されてると思うわけでこれも母親の態度に二重性があった為と思われるのである。つまり、時に優しく時に冷たいのである。だから私は母親に愛されてるのか、愛されてないのかわからなかったのではなかろうか。勿論愛されてると思い込んでるから、母親の態度にそう思わせるだけの根拠があるのである。それは上部だけの愛情であった。母親と一緒にいると、言い様のない孤独感に襲われるから母親の愛情はインチキであった。そして私は母親の自我を吸収して自我を築いたから私も自我が分裂したと思われるのである。私は母親の愛情に飢えていて更に分裂病的な自我を築いたのである。分裂病は今では統合失調症と呼ばれ脳の疾患と思われているが私の場合心理学的に説明がつくのである。

それで母親の話に戻ると私の母親も自我が分裂ぎみだったと思われるが、私は母親と一緒にいると言い様のない不安に襲われるのであった。孤独感と不安が入り交じったような感情である。これが物凄く辛く、精神的、或いは肉体的危機に瀕すると世界に自分1人しかいないような強烈な不安が襲ってくるのである。私は全ての人間と上部だけで付き合っている事実を突き付けられるような不安である。自分は1人ぼっちなのだ。誰からも愛されておらず愛されていると思ってたのは思い込みだったのだ。そして母親に実は愛されてなかった事実を痛感するのである。母親に上部だけで接しられ、愛情がないのであるから私は母親との関係が、他の人間との関係にずらされて、再現されるのである。そして母親に愛されてなかったから自然と人を愛せないのであった。それで今まで説明してきたことからも明らかなように両親に愛されてなかった私の母親の関係性が私との関係にずらされて再現されてるのである。祖母から私にまで至る過程においてアンビバレントな精神状態が一直線に綿々と受け継がれてきたのであり、それ以外に説明のしようがない。私の祖母、つまり母親の母親も精神が分裂ぎみだったと思われるのである。実際に母親の姉も分裂ぎみであり優しい人間なのか冷たい人間なのかよくわからないのであった。わたしの母親も同じである。そんな母親と二人きりで生活してきたのが痛すぎた。まともな親父がいれば違ったであろう。しかしいなかったものはしょうがない。親父とは年に2、3回会う程度であった。

そして私の母親は死ぬほど馬鹿であった。信じられないくらい馬鹿であった。私が仕事を辞めて、次の職場を探そうと思っていたのだが、前にも説明したが母親は私が辞表届けを提出したその日に相当ショックを受けたのか自分だけ働くのが馬鹿らしくなったのかその日は仕事を休んでいるのである。で、次の日に仕事から帰ってきた母親の第一声が「面接言ってきた?」である。私は唖然とした。仕事を辞めた次の日にどうやって面接に行けばいいのか!私の母親は私が仕事をすることに価値をおきすぎであった。ちょっと信じられない。仕事を辞めるということは勿論次の仕事を探して就職する前提で辞めてるわけである。
母親はそれくらいは理解してると思っていた。しかし母親は私の事を信頼してなかった。それが辛かった。この人は私の事を自分に取って都合のよい人形のように思っていたのではなかろうかと疑ってしまうのである。
私は自由を満喫したかった。好きな時に働き嫌になったら辞め次の仕事をさがす。20代の頃はそれで良いと思っていた。好きな時に働き空いた時間は遊ぶ。そして本格的な職探しは30代に入ってからでも遅くないと思っていた。しかし、私の母親はそれを許さなかった。私に直ぐに働いてもらいたかったようである。その事が私にとってはとてつもない重荷であった。仮に働く事に疑いがあったとしても、1週間くらい様子を見る余裕はなかったのか。1週間くらい様子を見て働かなかったら私に「働かないの?」と聞けばよかった。で、そういうことがあって働くのが嫌になり私はニートになるわけであるが、それから1年たったある日のこと私の母親は私に対して「もう充分遊んだでしょ」と言ってきたのである。私は働く気があり、母親の一言でやる気を失ったのに、母親は私が遊んでいるようにしか見えなかったようである。とんでもない馬鹿だ。ありえないレベルである。ここまで馬鹿な親は他にいないのではないか?それでますます働く気が失せてしまった。私の母親がもうちょっと賢く、他人の気持ちのわかる人だったら私の母親はここまで苦労することはなかったであろう。結局私が無職になり苦労するのは母親である。母親が私の気持ちを理解すれば私は働いたのである。どうしようもない馬鹿だ。こんな馬鹿ちょっと見たことない。
私に対して「働かないの?」と聞いてきたことは一度もない。何で聞かないのか?子供が働かず1日の内ほとんど家の中にいることに危機感はもたないのか。子供のことが心配にならないのか。本当に馬鹿だ。結局私の母親は病気になって死ぬのだがはっきし言って自業自得である。私に罪はない。

おっさんになった今、若い頃をよく振り返る。私が働く可能性はなかったのか。私の側に原因はなかったか、等考えるがどう考えても働く可能性はなかった。親が変わる以外になかった。そして私の母親は全くと言っても良いくらい変わらなかった。私は思う。20年以上も無駄に生きてきて後悔だらけの人生である。何で俺はこんな目にあわなきゃならないのかと。納得出来ない。母親には私の人生を返してくれと言いたい。しかし、母親はもういない。私の思いは虚しく何処にも届かず宙をさ迷いつづける。
無駄にした20年はどうやっても帰ってこない。虚しい気分だ。母親が私の立場に少しでも立って考えれば私の未来は違ったものになったであろう。私は仕事をし、働いて得た金で好きな物を買う自由を満喫出来たであろう。何で私の母親は一言も私に働かないのか聞かなかったのであろうか。全く謎である。いずれ、働くと思っていたのであろうか。しかし私は母親のことがむかついて毎日殴りまくっていた。私の気持ちを分かってもらいたかったからである。しかし私の母親は私の気持ちを理解することはなかった。母親1人子1人だから経済的に圧迫してくるのは明らかなのに何故私の母親は「働かないの」と聞かなかったのか。全く謎である。何を考えていたのかわからない。母親は自分に罪があるのを分かっていてその事実を突き付けられるのが嫌だから私に働けと言わなかったのかも知れない。普通愛情があれば子の未来を案じ子供が働くように働きかける筈である。しかしそういうことは一切なかった。
で、私の母親は私の暴力に耐えかねて家を離れて一年間ほど友人の家に逃げてるのである。その間私は母親の仕送りでやりくりしながら生きていた。本当に馬鹿だ。そんなことをせずに母親は私が働くように働きかければよかったのである。経済的にピンチになるのも目に見えてる。実は私の母親は1000万の借金を抱えていた。本当に馬鹿だ。私が何故働かなくなったのか思い返し、その理由を考察してみればよかったのである。しかし、それが出来ないのもやはり自分の罪を認めるのが嫌だったのではなかろうか。たったそれだけのことで1000万円もの借金を抱えたのである。生活費が足りなくなった時に何故私に一言も相談しなかったのか。一体何を考えているのか。意味不明である。私に生活費が足りないと相談して私を働かせればよかったのである。私だって働いて遊びたかったのである。現状には全く満足していなかったのである。何故そんな簡単な事がわからないのか理解不能である。失った時は帰ってこない。私は後悔の連続である。別の家庭に生まれればよかったとしょっちゅう思う。しかし、そんなこと考えても現実は変わらない。現実を受け入れる他にない。若い頃にしたかったことが母親のせいで何もできなかった。更に視点死刑で述べたように私は友達にトラウマを植え付けられていた。二重苦である。20代の頃は葛藤の地獄であった。どこにも解決策はない。ただ時だけが過ぎていく。出口はどこにもない。そうやって生きてきたら気づいたらもう何もかもが手遅れのおっさんになっていた。生きるのが辛すぎる。こんなに辛い目に合うなら生まれてこない方が良かったと最近よく思う。私の人生は苦しみの連続である。他の人間が青春を自分の人生を謳歌してる中で私は1人悶々と苦しんでいた。母親の存在は絶望的であった。辛すぎる。何で俺だけこんな目にあわなきゃいけないのか。納得出来ない。母親がもうちょっと人の気持ちのわかる人だったら私の人生は違ったものになったであろう。虚しい気分だ。