狂人日記

ある男の人生記録です

日本人が抱える最大の問題は?

1つは日本人がビビりだということ。2つは日本人が取り残され恐怖をもつことである。これがほとんど全てだと思われる。日本はアメリカの属国であるのに属国脱却をしようとしないのもアメリカがこわいからだ。北方領土竹島の領土問題に関してロシアと韓国に強気になれないのもロシアと韓国が怖いからだ。日本では妙に在日が優遇されており、腹を立ててる日本人もいるだろうが、それは日本人がかつて朝鮮を侵略した負い目があるわけではなく韓国を敵にまわすのが怖いからだ。ヨーロッパはアメリカから離れてアメリカに対抗する為にユーロが生まれたが日本はアメリカが怖すぎて国際情勢を見誤りアメリカ追従である。どちらかと言うと右翼だが、自民党アメリカに妙に追従してるが、それもアメリカが怖いからだ。ストックホルムシンドロームにかかってると思われるが、右寄りであるくせにアメリカ追従だから自民党の精神構造は歪んでいるだろう。自民党が弱者にやたら冷たく富裕層を優遇するのはもちろん優越感に浸りたいわけであるが、アメリカの属国である、圧倒的現実を否認して弱者を苛めることによってその屈辱を果たしているのである。アメリカの真似事をしてるとも思われるが金融資本家にはやたら甘い政策を実施するのもアメリカの属国だからだ。日本を不幸にするだけの自民党をなぜ国民が支持してるのかは、単純に考えて自民党より野党が馬鹿だからだが、もう1つは自民党の歪んだ精神構造、右寄りなのにアメリカ追従という屈折した感情を共有化してるからだと思われる。かつての提灯行列を見ても分かる通り日本は基本的に反米である。しかし、アメリカが怖すぎる為に属国脱却を図ることが出来ないないのである。この日本人のビビり問題に関して真剣に議論している人間をほとんど見たことない。ほぼ全国民が抱えるコンプレックスである為にこの問題に触れたくなく認めたくないのである。コンプレックスと言えばおっぱいが大きいのがコンプレックスだとか、身長が低いのがコンプレックスだとか意識の領域にある劣等と思われる対象を指すことだと思われてるがこれは誤用である。本来は無意識的葛藤のことをコンプレックスというのである。無意識といっても日本人の場合このコンプレックスをうっすらと知っている状態であろう。フロイトの言葉を用いれば前意識的段階にあるコンプレックスと言えよう。日本会議とかいう右翼(?)的団体があるが、奴等もこのコンプレックスを抱えているのである。答えは簡単である。足元に転がっているのである。それを認めないのはかつて敵無しだった白人を初めて打ち負かした歴史があるため単純に日本人のプライドが許せないのである。この問題を克服したら日本の抱える問題のほとんど全ては解決出来るだろう。

日本人は傷つくことを異常に恐れる遺伝子、恐怖遺伝子を国民の98%が持っており遺伝的な問題とも言えるから話は厄介である。かつては武士道があり、気骨あふれる日本人がいたが、日本人の武士道精神に手を焼いたアメリカが日本人を骨抜きにすべく日本人から武士道精神をとってしまった。恐怖遺伝子を持つ日本人には武士道はうってつけであったがアメリカの占領政策の為に日本人は武士道精神を失ってしまった。岸田秀が語ってたが、バスがハイジャックされた際に男性の乗客が真っ先に逃げたので日本人はここまで骨抜きにされたかと嘆いていた。日本人はふにゃふにゃしてしまった。果たしてどうすべきであろうか。武士道精神を取り戻すべきであろうか。しかし、そうすると、アメリカと韓国が猛反発するであろう。日本人はそれを恐れているのである。つまり、かつて、松岡が国連を肩で風切って脱退した日本人はその面影もなく今では外国に対して本当に弱気で遺憾砲を発射するだけだが、そうなってしまったのも武士道精神を失ったことと無関係ではあるまい。しかし、武士道精神を取り戻そうとするのはアメリカと韓国を怒らせてしまうのじゃないかというジレンマに陥っているのである。どうすべきか。

もう1つの問題取り残され恐怖も日本人のビビり体質と根は同じところから出ている問題である。日本人は外部に信仰の対象を持ってしまう変わった民族である。和魂漢才、和魂洋才と言われるのがそれである。自民党は和魂米才という感じでアメリカべったりでアメリカに依存してるが、それも取り残され恐怖があるからだ。なぜ外部に信仰の対象を持ってしまうのかと言うと簡単な話で内部に信仰の対象がないからである。神道があるがこれは教義が何もなく信仰の対象にはなり得ない。人間はその本質的体質によって必ず信仰を必要とするのである。科学者のリチャード・ドーキンスは信仰は必要はないと信仰を攻撃しているが、彼は自身にとって科学が信仰になってしまっていることに気づいてないに過ぎない。信仰を攻撃出きるのは信仰だけだから、ドーキンスは科学を信仰し、科学でもって信仰を攻撃しているのである。科学も宗教も信じてない人間は無信仰の信仰という信仰を持っていると言えよう。従って信仰を持たない人間はいないのである。そして、なぜ日本人は内部に信仰の対象を持たないかと言うと日本の内部には絶対的に何もないからである。これこそが日本人の良点を生み出し難点を生み出す要因である。根は同じところから出ているのである。良点は有事の際に矢継ぎ早に日本を変えることが出きること。内部に何か持っている民族や国はなかなか、自分達を変えることが出来ないだろう。かつては中華思想を持つ中国がそうだった。難点は押しに弱いこと、ビビりなこと、そして取り残され恐怖を持つことである。押しに弱いのは内部に何もないから当然と言える。押しの強い人間は後ろ楯を持ってるが日本人はなんも後ろ楯を持ってないので押しに弱いのである。ビビりなのも、かつては武士道精神があったと言っても江戸時代に日本を訪れたヨーロッパ人が日本人の民族性を高く評価しつつも、日本人には1つだけ欠点があると言い、それは日本人は臆病だと語っており武士道精神があった時代から日本人はビビりだったとのである。遺伝的な問題でもあるため難しい問題なのである。取り残され恐怖はかつてバスに乗り遅れるなと言いナチスファシズムのイタリアにくっついたように今でもこの体質は変わってない。最近でもマスコミが国際社会に取り残されない為にバスに乗り遅れるなと、言っていた。日本人が洋服を選ぶときに値段やデザインで選ぶのではなく、ブランドで選ぶのもこの症状である。後ろ楯がない為にブランドものを身に付けてないと不安に襲われるのである。全身有名ブランドに身を包んだ人間がいるがこれも一連の症状である。デザインではなく、あくまでも世界的に通用してるからという理由でブランドものを身に付けてるに過ぎない。

日本の左翼は愛国左翼ではなくて反日左翼だが、それも文化の中心に何もなく後ろ楯がない為である。外国人の押しの強さに押しきられているからだと思われるが、外部に信仰の対象を持ってしまうこととも無関係ではあるまい。民主党は母の国韓国とほざいており、これは外部に信仰の対象を持ってしまうその体質が病的現象として出てきた症状と言える。(父の国アメリカといったところか。全く与党も野党も期待出来ない)自民党は右翼的であり左翼的だが外国には甘く身内には厳しいのも一連の症状である。かたや内部を見てみると、日本の共同体は身内には甘く外部の者には冷たいと言える。岸田秀が官僚病の起源で語ってたが日本人は共同体内部の不正について甘く隠蔽体質があり、その罪を隠そうとするが日本人は外国に対しては外部に甘く内部に冷たいが、これが内部にずらされると逆転して外部に冷たく内部に甘くなる構造を持ってると言える。私は反自民党の左翼だが反日ではない。日本がもっとよくなればいいと思ってるのだけである。アンチ的姿勢は一種の思考停止に陥ってしまうとも言えるが私は日本の未来を思うと自民党には期待出来ず基本的に自民党とは反対の立場であるための反自民党ということである。

日本人が横の繋がりが弱く団結力がないと言われるのも内部に何もないからであろう。横の繋がりを保証する内部的中心、立脚点がないからである。これが押しの弱さの原因でもあるであろう。ヨーロッパ人が押しが強く自我を確立しているように見えたのは内部にキリスト教という立脚点があったからにすぎないが、日本人はヨーロッパに対抗する為に京都にすっこんでた天皇を持ち出し天皇を絶対化し、天皇を立脚点に置き国家神道を作った。これは半分は成功したが副作用も強く例えば、大宰や漱石等の病んだ作家を生み出してしまい、国民は対人恐怖症になってしまった。強い自我を持とうとした副作用であった。ヨーロッパを初めて日本は打ち負かしたから確かに一応の成功をおさめたとも言えるが、八紘一宇の理念も生まれろくなものでなかった。そして、かなり無理をして強い自我を持ってしまった為に長続きしなかった。一体どうすべきか。内部に何もないが故に何か持とうとすると思考が絶対化するのである。外国人に日本人はゼロか100でしか物を考えることが出来ないと言われる所以である。大日本帝国の大失敗があるのに、今でも八紘一宇を唱える人間が出てくるのも未だに思考が絶対化された人間が出てくるのも、かつての夢に共鳴してるとも思われるが、これもその一例である。原因はそこに転がっている。あまりにも明白である。しかし、解決策を見出だせない。養老孟司は日本の思想は無思想の思想だと認識する必要があると言うがそれで上手くいくだろうか。それは私には分からない。少なくとも現与党の自民党には解決は無理であろう。小泉環境大臣は人口削減を考えていてネガティブな一億人よりポジティブな6000万人の方がよいと馬鹿なことをほざいていた。6000万総ポジティブである。そんな国家なんてあり得ない。なんて馬鹿な発言なんだろう。人間は時にはネガティブになることも必要だと知らないのである。陰と陽である。そのバランス感覚こそ重要なのである。こういう奴が有事の際に一億玉砕とか言い出すのであろう。滝川クリステルと結婚したが、どういう男を選んだかでそいつの人間性がわかってしまうだろう。要するに地位と名誉にひかれたのであろう。私は低学歴だがこいつらは高学歴だが、本物の馬鹿なんじゃないかと疑ってしまう。こんな奴が将来の首相候補なのかと思うとうんざりしてくる。漫画の稲中卓球部に猿に核のボタンを管理させるギャグがあったがそれに近いものを感じる。

とにかく日本の抱える問題は分かりきっている。内部に何もないのが問題である。内部に何か持とうとして失敗したのが大日本帝国である。だから、内部に何か持つことには抵抗を感じる。これはアイデンティティ的な非常にデリケートな問題である。養老孟司がいうように日本の思想は無思想の思想だと認識すべきだと思うが世界的に通用するだろうか。外部に繋がりを保証する立脚点を持ってないのが日本の弱みである。外国は多くがキリスト教徒、あるいはイスラム教徒だし、大陸人は同じく大陸人であるし、侵略したりされたりを繰り返してきたから自己主張が強くなったと言える。彼等には外部に繋がりを保証する思想があると言える。だから強く自分達に自信を持ち自己主張出きると言える。(自己主張の強い中国の中華思想は広く信仰されているとは言えないが、しかし、中国には世界的に有名な思想家がたくさんいるし、同じく大陸人で侵略したりされたりを繰り返してきた歴史があるため自己主張出きると言える。やはり、同じ大陸人であることのメリットはあると言えるだろう)何もなくなれば日本人と同じく対人恐怖症になるのである。キリスト教の幻想が崩れ、後ろ楯を失ったヨーロッパ人はそれまで日本にしかいなかったと言われてた対人恐怖症患者が出てきたのである。何もなくなると日本人と同じ症状の患者が出てくるのである。従って外国人の押しの強さは後ろ楯のある強さであって何も無くなれば病気になるのである。(現代の資本主義社会に限った話だが)従って、日本の思想、無思想の思想が外国人に理解され、無信仰の信仰の信徒が外国から出てきた時に初めて日本人は自分達に自信を持つことが出きるようになるだろう。仲間が出来るので外国人に対しても強く打って出れるようになるのだろう。

日本のアニメやゲームが海外で受けてるし、ネットが海を超えボーダレスになり、ネットで外国人の意見を目にすると日本人と大して変わらないことがわかる。従って昔ほど日本人は外国人に対して引け目に感じることはなくなったかも知れないが。

怪しい事件が多すぎる病んだ大国日本

日本は不審死や冤罪事件が多すぎる。今の日本はかなり病んでると思われるが、最近自殺した三浦春馬竹内結子が同じくクローゼットで自殺してるのが怪しすぎる。他に飯島愛やTBSアナウンサーの川田あこ、或いは練習中に心臓発作で亡くなったサッカー選手の松田の死も怪しい。私は彼等や彼女たちは殺されたと思っている。日本には何か裏で日本を操ってる一味がいるようだ。(私は陰謀論は信じてない)他に冤罪事件も多すぎる。秋葉原で大量虐殺した加藤、子供の首を切断して中学校の校門にその切断した首を置いたさかきばら、子供を殺したオタクの宮崎、カレーにヒ素を混ぜた林、奈良の雑音おばさん等はどれも怪しい犯罪である。テレビで紹介されてることと、現場の発言が全く一致しない。宮崎は身長が159センチしかないのに、宮崎が子供を隠す所をみたと語る人間に寄れば、その目撃された人物は身長が170センチくらいで、しかも、宮崎が所有してた車と違う車を目撃したと言うのだ。宮崎の父親は謝礼金を払って自殺してしまった。林も明るくていい人で通っており、周りの評判はよく男性にモテてたらしい。林を支援する団体もいて、マスコミが取材に訪れたがテレビで放送されることはなかった。加藤も別の人間が人を殺してる所を目撃されてるのにテレビではそのことには触れられず、加藤は死刑判決を受けてしまった。雑音おばさんも近所の評判はよく、障害を抱えてる子供を育てていたようだ。擁護する人間もいたが、テレビでは放送されず奇人変人扱いされてしまった。真実は隣人の嫌がらせにあっていてやり返していただけだと言うのだ。さかきばらも怪しい。専門家の意見によると子供の首があまりにも綺麗に切断されていた為にこれは中学生の子供がするのは不可能で、プロの仕業に違いないということだったが当然テレビでは放送されなかった。

話が多少ずれるが、坂本九がなくなった123便事件も怪しい。無人機が衝突したのだが墜落現場を特定したのに乗客の救助に行かず、横田基地から救援に行くと発信があったのに日本政府は断っており、ボイスレコーダーの一部も消されてたらしい。この123便事件に関しては当時の首相だった中曽根が真意は墓まで持ってくと語っていたが、様々な杜撰な日本政府の対応がばらされた。早く救助に行かなければと正義感の強い人間もいたが彼は殺されてる。この123便には坂本九だけでなく他にも有名人がいたらしいが、123便に乗る予定だった有名人もたくさんいたらしい。例えば明石家さんま深田恭子等がそうである。これは日本の仕業なのか?それともアメリカの仕業なのか?謎が深まる。

日本ではなぜ、このような不審死や冤罪事件が多いのだろうか。何か日本の闇(病み)を感じてしまうが、例えばさかきばらの事件は日本中に衝撃を与えたが私は別に衝撃を受けなかった。さかきばらは犯行声明文を漫画から引用して書いており、そのことを知って私は白けてしまったのだ。さかきばらは自分の事を「透明の存在の僕」と語ってたがこれは、裏で悪巧みを働く勢力のメッセージではないか。日本はアメリカの属国である。アメリカから独立したいが出来ない、それどころか、アメリカに依存してしまう悲しい日本。アメリカが怖くて反発できない悲しい日本。その無気力感を表しているのではなかろうか。日本の左翼は反日だが、基本的に反米である。翻って日本の右翼は右翼のくせに親米である。この屈折した感情が様々な症状として出てきたのが、怪しい不審死や冤罪事件に反映されてるのではないか。アメリカも有名人の不審死が多すぎる。殺すリストを作ってるのではないかと言いたくなるくらい多い。私はマイケル・ジャクソンホイットニー・ヒューストンブルース・リーも殺されたと思ってる。同じくパンクロッカーのジョー・ストラマー、ジョーイ・ラモーン、ジョニー・ラモーンも病気で亡くなったが私は殺されたと思ってる。ジョンベネ事件も怪しい。母親が病死したらしい。マイケル・ジャクソンは変人扱いされてメディアで取り上げられたが、かなり優しい人間で平和主義者だったらしい。マイケル・ジャクソンを変人扱いしたのは彼が平和主義者だったのが都合が悪く感じる一味がいたのではなかろうか。ジョン・レノンもイマジンという平和ソングを書いていて殺されたがやはり、アメリカには都合が悪かったのだろう。

日本はアメリカの真似事をしてるのではなかろうか。私はそう思うのであるがどうだろうか。アメリカに依存しなければ生きていけない日本はアメリカナイズされてるのではなかろうか。一方で当然の如く反発もあるから、怒りもあるがアメリカが怖すぎて反発出来ない無力感を犯罪を犯すことによって晴らしている側面もあるのではなかろうか。例えば自民党である。安倍は右翼だったが、完全にアメリカの言いなりの犬に過ぎなかったが、その屈辱を貧困層を増やし社会的弱者を苛めて憂さ晴らしをしてたのではなかろうか。人殺しと言うと反日左翼の方を連想してしまうが、この幾多の殺人事件は葛藤の症状の表れである。従って右翼の犯行ではなかろうか。つまり、右翼のくせにアメリカ追従という屈辱を弱者苛めで晴らしてた自民党の症状と照応し、根は同じところから出ている現象であるのではなかろうか。そう考えれば説明がつくと私は思うのだがどうだろうか。その自分達の無力さが生み出す虚しさ、アメリカに依存し自分の足で立てない日本のコンプレックスだが─その無力さが「透明な存在の僕」というメッセージに反映されているのではなかろうか。私はそう思うのだがどうだろうか。

陰謀論を信じてるのはアメリカと日本だけらしい。有名な陰謀論と言えば何と言ってもユダヤの陰謀だが陰謀論者によれば、アメリカは裏でユダヤ人勢力に支配されていて、今のアメリカが歪んでるのはユダヤ人のせいで本物のアメリカを取り戻す必要があるとのことである。戦争を引き起こしてるのもユダヤ人の金融資本家だと言うのだ。翻って日本ではどうだろうか。陰謀論者の語るところによれば日本は在日朝鮮人創価学会に裏で支配されており今の日本が歪んでるのは在日と創価のせいで本物の日本を取り戻す必要があるとのことである。お気づきだろうが、日本とアメリカは同じ物語を展開しているのである。ヨーロッパや他の亜細亜圏内では陰謀論が信じられてないことを考えると陰謀論アメリカが流布させてると考えて問題あるまい。日本にも陰謀論を流布させて真実を覆い隠せとアメリカに指示されてるのだろう。なぜ日本とアメリカだけなのかは分からないが何とも幼稚な連中であると思う。真実と嘘を織り混ぜて語るのがアメリカの得意とするところだが、陰謀論も同じようなものなのだろう。日本でも陰謀論系の番組は人気があるようであるが、ある程度は真実を語っても良いのだろう。ただし、絶対に知られてはいけない真実を語ったら殺される。私は一部の陰謀論は全く信じてないが、例えばアメリカが戦争を起こすのはユダヤ人の仕業ではなくインディアンを大量虐殺した負い目と罪悪感があるから反復脅迫的に戦争をして、自分達のしたことが正義であったと証明したい衝動が根底にあるだけであって別にユダヤ人は関係ない。日本も同じく在日も創価も関係ない。前回のブログで書いた通り問題は日本人の気の弱さと依存体質にあるのである。

最初の話に戻るとやはりアメリカが関係してるとしか思えない。アメリカは人口削減計画をしていると言う陰謀論があるが、こちらは真実味がある。実際ビル・ゲイツが人口削減に言及していた。何でもロックフェラー財団が計画をしてるとのこと。日本でも小泉環境大臣が日本の人口を6000万人にすると言及。小泉はネガティブな1億2000万人よりポジティブな6000万人の方がよいと語っていた。こいつらは優性思想の持ち主であろう。自民党は弱者軽視が酷いが自民党の一種の優性思想的体質に一部の日本人が共鳴してるのだろう。馬鹿なことばかりしてるのに支持者がいるのはその為であろう。6000万総ポジティブなんてあり得ない。論理的に考えても無理がある。何て馬鹿な発言なんだ。こいつはネガティブティーの重要さを分かってない。ネガティブも極めればポジティブになるのである。陰陽の法則である。こいつにはそれが分かってない。自分だけはちゃっかり子供を作ってるし、他人は作るなってか。6000万人も減らすとか、スターリンヒトラー毛沢東を超えてるよ。しかも将来の首相候補だよ。こんな優性思想の持ち主と結婚した滝川クリステルて一体。本当に恐ろしい。((((;゜Д゜)))

日本はアメリカの忠実なしもべ、子分としてアメリカの言いなりになり、かつ、そのことに屈辱を感じてるから様々な症状として出てきたのが、自殺に見せかけた殺人であり、冤罪事件である。私はそう思ってるのだがどうだろうか。

宗教問題を解決するには?

前にも書いたかもしれないが書いてないかもしれないので一応書いとく。最近電磁波の影響で物忘れが激しい。

宗教の問題に関しては多くの識者が批判検討してきたが、誰も語ってない視点から宗教を語ってみようと思う。

宗教を批判する場合には他の宗教を持ってくる他にない。宗教以外のもので宗教は否定出来ないからである。2ちゃんねるによくいるが彼等は科学でもって宗教を否定してるが奴等にとって科学が宗教になってしまっていることに気付いてない。そう書いたら科学は真理に辿り着く最高のツールであって科学と信仰は違うとやり返してきた。しかし、説明した通り宗教以外のもので宗教を否定出来ないのだから確実に科学信仰なのである。だって化学の言うことは9割が仮定の話なんだから。従って科学が正しいと信じてるに違いないのである。科学が真理に辿り着く最高のツールだと「確信」は出来ないであろう。岸田秀が語ってたが宗教を否定する人間はある特定の宗教に依拠してる熱烈な信者の如くこちらも狂信的になってしまうのである。ニーチェが提示した命題、怪物退治をするものが怪物にならない為にはどうすべきかという問題である。2ちゃんねるの宗教否定派はどうみても狂信的である。

そこでじゃあ、どんな宗教が理想的かと言うと養老孟司が言うように無宗教の宗教でもって宗教、要は1神教のことだか、を否定し自分達の考えは間違ってるととくとくと説く以外にあるまい。無宗教の宗教と言えば仏教と日本教である。何の因果か日本は2つの無宗教の宗教を持っているのであり、どこまでも徹底して無宗教の宗教の信徒なのである。このことは前に書いた。日本人に課せられた役割は大きく希望は日本にあるだろうと。しかし、そうはいっても一つ大きな問題がある。例えば宗教そのもの、全ての宗教を否定する場合には無宗教の宗教を持ってくる他にないが、そうすると全宗教の中で無宗教の宗教がトップに立ってしまうのである。従ってある特定の宗教を信じて依拠してる人間はプライドを傷つけられ、ますます自分達の信じてる宗教に依拠するようになるのである。これは難しい問題である。宗教を否定出来るのは宗教だけということは宗教を持たない人間はいないと言うことである。全ての宗教を信じない人間は無宗教の宗教を信じてると言わざるを得ないのである。日本人はよく、あれは、宗教だよなあ、と語るがそれも自分達が無宗教の宗教を信じてることに気付いてないに過ぎない。このプライドの問題に関しては養老孟司は触れていない。岸田秀は人間には必ずプライドが必要でプライドがなければ人間は生きていけないと語っていた。私もまだこのプライドの問題に答えを見出だせてない。全宗教の頂点に立ってしまう無宗教の宗教をどう理解させるべきか。養老孟司はそれは0のことだよと言う。そう説明すれば通じるのではないかと。そう説明して通じるのは無宗教の宗教を信じてる人間だけである。従って、ある特定の宗教を信じる人間は理屈は理解しても自分達が依拠してる宗教から脱する気は起きないだろう。いや、数字のゼロだと言われたら数学的真理は反論の余地がないからかえってますます意固地になり自分達の信じてる宗教に依拠するはずである。養老孟司はこの問題に関しては論じてない。私も答はまだない。一体どうすべきか。1神教がおかしい宗教だと自然に気付くまで待つべきであろうか。どうすれば説得力を持たせて1神教を捨てさせることが出来るだろうか。仏教を持ってくると1神教を完全に論破出来るがそれで上手くいくだろうか。やはり、仏教の慈悲の力によって説得すべきであろうか。今の私にはよく分からない。養老孟司岸田秀の意見を是非とも聞きたいものである。このブログを読んでるかな。私のブログの内容に反応してくる芸能人がいるので読んでるかもしれない。

1神教と超自我と孔子症候群

1神教徒と超自我は密接な関係があるであろう。1神教とは唯一絶対の神を拝む宗教である。唯一絶対の神は全知全能である。従って人間の頭の中を覗き込むことも可能である。だから神の視点が超自我として内在化されたと思われるのである。超自我が先か1神教が先か知らぬが超自我は多分に1神教的体質を持ってると言えるだろう。超自我は監視役である。道徳的に自我よりも優位に立ち常に自我を監視しているのである。イエスは言う「汝頭の中で姦淫したものは実際に姦淫したことになる」と。イエスは観念的に人々の心の中に自分の視点を植え付けたかった思われる。イエスは神の子であり絶対的な存在者であるが故に視点を植え付け超自我を内在化させることが出来たのである。私も被害者だから分かるが私の事を洗脳した糞野郎は自分の事を絶対化していた。そして自分の考えを押し付けてくるのであった。自分の考えを押し付け視点を内在化する為には自分を絶対化させる必要があったのであろう。1神教も同じである。超自我としての視点を植え付けて内的に支配する為には唯一絶対の神が必要だったのである。だから1神教は超自我を植え付けたい衝動があったと思われるのである。実際のところユダヤ人にとって1神は重苦しかったのではなかろうか。全知全能という誇大妄想的観念は矛盾だらけだし(全知全能なら自分よりも強い存在を産み出せるはずである。しかし、自分より強い存在を産み出したら全知全能ではなくなる)反論の余地のない存在は重苦しいのではないか。そこで全知全能の神を疑いの余地のないものと思い込むことによって全知全能の神を信じるある種の自己欺瞞を働いたのではないか。岸田秀ユダヤ人はユダヤ教を押し付けられた為にユダヤ人とユダヤ教との間にしっくりこない齟齬があると分析していた。更にヨーロッパ人も同じであると分析する。ヨーロッパ人はキリスト教を取捨選択して取り入れたわけではなくローマ帝国キリスト教を押し付けられたのである。従って岸田秀はヨーロッパ人はユダヤ人以上にキリスト教との間にしっくりこない齟齬があると分析する。それが後のヨーロッパ人の過激な行動を説明するのではないかと分析する。実際暗黒の大航海時代はヨーロッパ人の復讐以外に説明がつきようがない。ヨーロッパ人は何をしたのかと言うと異教徒にキリスト教を押し付けて奴隷として異教徒を使役し資本主義が生まれヨーロッパは豊かになったのであった。ヨーロッパは非常に貧しくキリスト教を押し付けられキリスト教との間にしっくりこない齟齬があり、困難から逃れる為にキリスト教を押し付け彼等を奴隷として使役したのだ。ヨーロッパ人は不満の塊であった。そして遂に不満が爆発して復讐に走ったのだ。実に卑怯だがそうすること以外にヨーロッパは不幸から逃れられることは出来なかったであろうか。岸田秀はヨーロッパ人は本当はキリスト教を信仰していなかったと語っていたがこの分析は多分当たっているだろう。私も被害者だから分かるが実際に押し付けられたものはそれがどんなものであろうと押し付け返したい衝動に駆られ内的に信仰することは出来ないからである。

実際にヨーロッパ人は不幸であった。地面は固く農業に適さず家畜を生業とし生活は貧しくキリスト教を押し付けられたのだ。ヨーロッパ人はこの押し付けられたキリスト教が何なのか葛藤に襲われたのだろう。聖書はアホらしく信じるに値しないし魔女狩りは行われるは、神の視点が超自我として内在化されるはで最悪であった。戦争もしょっちゅう行い、なんと1000年の間に戦争をしてなかった期間は僅か1年しかなかったのである。これではキリスト教に懐疑的になるであろう。実際に超自我は重苦しかったであろうし、反論することが許されないキリスト教には潜在的に反発するだろうし、キリスト教から解放されたかったであろう。ヨーロッパ人がキリスト教を信じていなかった根拠として今では誰も教会に行かなくなったとヨーロッパ人は嬉々として掲示板に書き込んでいるのである。更にある修道院の人間が「神はいないと」書き残した文書が見つかったのである。自分達を不幸にするだけのこのキリスト教に懐疑的になったの当然であろう。私も被害者だから分かるが実際に超自我は重苦しいものである。一旦超自我として内在化されると中々超自我を払拭出来ないのである。それはそれは苦しかったであろう。やはり他人を犠牲にする以外にヨーロッパ人はキリスト教から脱することが出来なかったか。

私はこのブログで超自我がある種の閉塞感を生み出していると分析した。簡単にお復習すると超自我の役割を担ってた神が死んだ為に今度は人の視点が超自我の役割を担うようになったのではないかと言うことである。その超自我の役割を担うのは主に毒舌野郎である。日本では松本人志養老孟司、欧米ではセックス・ピストルズジョン・ライドンである。そしてその超自我が人々を監視し生きる活力を奪っているのではないかと言うことである。本当は皆自分を出して生き生きと自分の人生を生きたいのだが超自我の批判の目に晒されるのが恐ろしく中々自分に正直に生きる事が出来ないのである。私はこの超自我が人口調整としての役割を担っているのではないかと分析した。人口調整と言えば戦争やウィルスだが超自我もその役割を担っているのではないか。物事に批判的な人間の視点が超自我として内在化される為に生き生きと人生を生きる事が出来ず、生命力を奪うのである。実際に今は弱者軽視の時代であろう。自民党は弱者軽視の政権で富裕層を優遇してるアホな政権だしネットの世界も弱者叩きが酷い。何とも陰惨な時代である。超自我の時代と言ってもいい。社会的弱者の立場に立ち知的で賢く説得力があり視点の影響力が殆どない内田樹の書物が人気なのもその為であろう。

欧米ではキリスト教が滅びかかってる為に超自我の影響力は日本ほど強くないと思われるがしかし、毒舌野郎が多いのも事実である。それはジョン・ライドンであり、オアシスであり、エミネムである。ジョン・ライドンエミネムのことをラッパーとしては凄いと認めつつも歌詞の殆どはガキの戯言に過ぎないと語っていた。またオアシスのことも何の罪のないロックバンドとして評価しつつもビートルズからアイデアをパクっていると評していた。彼等の中ではジョン・ライドンが頂点に立ってるだろう。日本では松本人志の視点が超自我として内在化されたであろう。松本人志は「もう誰もあいつには敵わないと思わせたい」と語りまた「松本人志理想のお笑い王国を築きたい」とも語っていた。実に1神教的である。だから日本のネットで叩かれるのである。日本人には1神教的なものは合わないからである。養老孟司にも松本人志同様大衆の心に視点を植え付けたい衝動があったであろう。養老孟司の書物を読むとその文章の行間から自分の視点を植え付けたい衝動が見え隠れしている。今の時代は超自我争奪戦みたいになっており養老孟司はその流れに乗っかってるに過ぎない。

超自我争奪戦と語ったが確かに誰の視点が超自我になるか今は争われている時代である。主に毒舌野郎の視点が超自我になるのだが大衆は次は誰の視点が超自我になるか不安なのである。松本人志養老孟司、或いは欧米ではジョン・ライドンを越える人間が出て来て今度はそいつの視点が超自我になり自分たちを監視するのではないかと不安なのである。松本人志は「もう誰もあいつには敵わないと思わせたい」と語るが常に自分が1番でなければ気分が悪く自分より才能のある若手の台頭を恐れているのであろう。実はそれは大衆の総意なのである。超自我に皆怯えているのである。ある種の孔子症候群である。つまり後世畏るべしである。未来の毒舌野郎に皆恐れているのである。だから、自分が批判されるのが怖い為に批判される前に他人を批判し、皆批評家になり1億総批評家時代と言われているのである。それもこれも根底まで突き詰めて考えると原因は1神教である。1神教問題の解決は全人類的な問題であろう。養老孟司は「もういい加減にしてよ、という思いで唯脳論を書いたんですね」と語っていたがそういう他人を見下すような言い方をするから駄目なのである。そういう言い方は1神教徒のプライドを傷付けるはずである。私は思うに1神教徒は人類を恨んでいると思う。私を洗脳し超自我を植え付けた糞野郎も世間引いては私の事を確実に恨んでいた。その恨みの衝動が内面に視点を植え付けて内的に支配したい衝動を持ったのである。超自我として視点を内在化したい衝動を持つものは恨みや憎しみの感情を持つものだけである。だから、1神教徒は人類を恨んでいると思うのである。その根底に恨みを持つ宗教の克服は難しいだろう。更に1神教徒は劣等感や嫉妬心も強いだろう。ユダヤ教の神は嫉妬心が強く懲罰をする恐ろしい神である。劣等感や嫉妬心の補償作用として唯一絶対神を生み出したとしか思えない。私を洗脳した糞野郎も劣等感と嫉妬心の強い男であった。自分の事を絶対化していたがそれも私を支配する為の他に自身の劣等感や嫉妬心を補償したかったのであろう。で、唯脳論だが唯脳論は自然科学の書物である。従って1神教の解毒剤にはなりえないのである。宗教の解毒剤になり得るのは宗教だけであるからである。しかし、養老孟司の視点は強く松本人志の上を行っていると言ってもいいだろう。40年以上前に文壇にデビューした岸田秀松本人志より上を行っていると言ってもいいだろう。同じくジョン・ライドン松本人志より上を行ってると言ってもいいだろう。ジョン・ライドンは言う。「俺は自称天才を嫌う。あいつらは傲慢だ」と。上には上がいるのである。何故松本人志の視点が超自我として強力な威光を発揮したかと言うと松本人志は誰よりも大衆に視点を植え付けたい衝動が強かったからである。

超自我と言えばフロイトである。超自我という概念を提唱したのはフロイトである。今から120年以上前の話である。フロイトはエディプスコンプレックスが形成される4、5歳の頃に超自我が形成されると考えた。親の教育が厳しいと自分を監視し懲罰する超自我が形成されるのである。フロイトは実際の臨床の場面で強迫神経症の患者を分析してみると患者の多くが性的葛藤を抱えていたのであった。というのも当時のヨーロッパは今と比べものにならないくらい性的抑圧が強かったのである。欲望を満たしたい衝動が超自我によって妨げられて欲望を満たすことが出来ず、その満たすことが出来ない欲望がエスへと抑圧され、そのエスが自我を脅かし、回り回って別の症状へと変質し(例えば歩けなくなるなど)強迫神経症になったのであった。そこでフロイトは厳罰な超自我を緩め、もっと自分の欲望に忠実になりなさい、自分のことを許してあげなさいと患者を諭し治療した。患者は無意識へと抑圧された欲望に自覚的になりなぜ欲望がエスへと抑圧されたのか論理的に理解するとびっくりするくらい病的症状が治ったのであった。フロイトの本を読んでみるとまるで推理小説を読んでるような興奮を覚える。フロイトが病的症状の依って来る由来を分析するのは非常にスリリングで面白いのである。岸田秀は同時期にシャーロック・ホームズのような探偵小説が出てきたのと精神分析が出てきたのは関連があると分析していたがこの考察は当たっているかもしれない。

フロイトは恐らく世界で1番叩かれた人物であろう。しかしフロイト理論は正しかったであろう。フロイトは人間を超自我、自我、エスの3分方で説明した。フロイト理論によると超自我が権威や権力で、自我が大衆、そしてエスが大衆の抑圧された心理、或いは、欲望、それと不満を抱える社会的底辺であると分析したと考えてもよかろう。フロイトは個人心理を集団心理に当て嵌めて分析したと批判されるが、実はそれは逆でフロイトは集団心理を個人に当て嵌めて分析したのである。フロイトが提唱した様々な自我の防衛規制、同一視、投影、反復脅迫、アンビヴァレンス、合理化、すり替え、摂取、反動形成、転移、そして抑圧も集団心理として理解した方が分かりやすいのである。従ってフロイト批判者はフロイト理論を理解してるとは言い難いのである。当時からフロイトは叩かれまくってたが未だに理解されず叩かれているのである。それは未だにフロイト理論は影響力を持ってる証左でもあろう。養老孟司は個人と集団を分けて考えないのは私と岸田秀しかいないと語るが(私を含めて三人である)フロイトはなんと120年以上前に集団と個人を分けずに考えていたのである。驚くべきことだがフロイトはただ1人時代の遥か先端を走っていたのである。未だに集団と個人を分けずに考えるのは「とんでもな」ことらしいが、フロイトはそんな「とんでもな」事を120年以上前に考えていたのである。全くもって驚くべき人物としか言いようがない。その発想力の凄まじさは松本人志を凌ぐだろうか。フロイトが現代にいたら松本人志をどう分析したであろうか。内田樹は「私に確信を与えたのはフロイトマルクスです」と語っていた。で、フロイト超自我論だが私は今の時代は超自我争奪戦になっていると分析したが、仮に私の考えを誰か否定するのであれば今度はそいつの考えが視点となり超自我として威光を発揮することになるであろう。つまり超自我論を非難する理論が今度は新しい超自我になるのである。養老孟司ダーウィン主義を論じてダーウィン主義を否定するのであればそいつの理論が生き残ったとしたらダーウィン主義は正しいと言うことになると分析していたがそれと同じである。従ってフロイト理論は正しかったと言えよう。私の超自我論を否定すればそいつの理論が今度は超自我になると私は分析したのだから私の超自我が全超自我の頂点に立ってしまうだろう。否定すればそれが正しいと証明されることになるのである。

今の日本の閉塞感の原因は超自我にあると分析し、大衆はある種の孔子症候群に陥っていると分析したがそれもこれも原因は1神教である。1神教問題の解決こそ全人類的な問題であり、喫緊の課題であろう。厳罰な超自我は実に1神教的である。1神教があるから超自我があるんだか1神教と関係なく超自我があるんだか知らんが、岸田秀は「1神教が諸悪の根元みたいなんで1神教が滅べばいいんですけどね(笑い)」と語っていたがそういう見下した言い方をすれば益々1神教徒は反発を強めるだろう。彼等のプライドを傷つけ益々1神教に依拠するようになるだろう。宗教に対応するのは宗教だけだと説明した。従って日本の宗教と仏教は重要な役割を担っていると言えるだろう。日本人は1神教問題を解決する世界的役割を持ってると言えるだろう。希望は日本にあるのである。日本の抱える問題の根本原因も突き詰めてみるとやはり1神教に行き着くはずである。だから日本人が日本の抱える問題を解決出来た時に1神教問題を解決することが出来るだろう。いい加減に日本の抱える問題について真剣に考えようではないか。平和ボケしてる場合ではない。自民党では無理である。日本の場合自民党こそが諸悪の根元である。自民党は平気で嘘をつくし、日本を不況に陥れた張本人であり反社会的勢力でありやりたい放題である。民主党のほうがまだましであった。自民党が与党である限りにおいて日本は幸福になれない。皆で一致団結して自民党を引きずり下ろすべきである。そして日本から新しい価値体系、行動指針を作るべきである。それは無宗教の宗教的なそれにするべきである。有思想では駄目である。日本人が本気を出せば凄いんだぞと世界に見せ付けるべきである。日本には養老孟司がいて、岸田秀がいて、内田樹がいる。他にも有能な批評家が沢山いるが、私は亀井勝一郎にも影響を受けているが彼等が、欧米の批評家に負けてるとは思えない。岸田秀は日本人が思ってるほど欧米人は大したことないと語っていた。ビートたけしも最近の欧米のインタビュアーは馬鹿な事を聞いてくると語っていた。日本人はいい加減に欧米に対して劣等感を持つのをやめるべきであろう。松本人志は日本人が1番賢いと語っていたが(自分が1番賢いと言いたいのであろう)自民党は世界最悪レベルのアホな政権である。それもこれも日本に独自の行動指針がないからだ。日本は外部に信仰の対象を持つ変わった国でいい加減にそういうことはやめて日本人にあった行動指針を作るべきである。その時に初めて日本の第二の出発であり1神教問題も解決できるであろう。希望は日本にあるのである。いい加減に本気を出そうではないか。それは世界の為になるのだから。未来の日本人に想いを馳せようではないか。日本人を想うことは全人類を想うことと同じであるのだから。頑張ろうではないか。空は青々と晴れ渡り太陽は燦々と輝く。希望の光が差し込む。1神教が滅びる希望に向けて頑張ろうではないか。

気づいた時には手遅れ。ハイロウズを解散に追い込んだのは私です。

私はこのブログである奴に洗脳されていたと散々書いてきた。それで私は強迫観念が脳にこびりつき強迫神経症になってしまったのである。この強迫観念は手強く私の思考、行動を制限した。奴に植え付けられた観念が原因だと思っていたのだが、どうやってもその強迫観念を振り払う事が出来なかった。私はこの強迫観念の構造的本質を知りたかった。しかし20年以上足掻き苦しみ、色々と考えてきたのだがこの強迫観念の構造的本質がわからなかった。私はもう諦めようとした。しかし、この強迫観念は厄介で諦めることすらも否定され、諦めることも出来なかった。私はまさに四方八方を塞がれたのである。諦めることもできず、また諦めないことも出来ないのであった。なんとも厄介な強迫観念であり全てを否定されるのである。例えば景色を見て美しいと感じたらその気持ちを否定され、或いは本を読んだり、映画をみたり、音楽を聴いたりした時に感動したらその感情を悉く否定されるのであった。しかし20年以上足掻き苦しんだ末に遂にその問題の構造的本質が分かってしまった。私はそいつに洗脳されていた為に自分の人生を生きる事が出来ず好きなことを好きと言えずなんともしみったれた冴えない人生を歩んできたのであるが、そのあまりにもしつこい強迫観念の謎が解けたのである。その謎とは、私の中に巣食う負い目と罪悪感と絶対化された奴の存在であった。奴は事あるごとに自分がいかに不幸な人間かを私に言って聞かせた。しつこいくらいに、私の心の中に植え付けるくらいに言って聞かせた。それで私の中に奴より幸せになってはいけない。奴を差し置いて人生を謳歌してはいけないという観念が巣食うようになったのである。そして奴が私の中で絶対化されていたこと、これが全てであった。私は何かしようとするとこの強迫観念が邪魔して何も出来ないのであった。最初はこの強迫観念の原因は私に様々な観念を植え付けた奴本人にあると思っていたがそれは間違っていたのである。私自身が私の行動を制限していたのである。私の中のもう一人の私が私の後ろ髪を引っ張るのである。それは奴の事を恐れてるもう一人の私であった。奴を差し置いて幸せになってはならないともう一人の私が私を監視するようになったのである。私は何も出来なかった。行動に移そうとするともう一人の私に後ろ髪を引っ張られた。とにかく私は奴より幸せになってはならないのであった。奴は私が自由に動けないように制御したかったのであろう。私の事を幸福にしたくはなかったのだろう。そこで奴は私を自分の言いなりにさせる為に自分の事を絶対化して自分の支配下に置こうとしたのだろう。そして私は絶対化された奴が私にとって本当に絶対的な存在になったしまったのである。そして奴は私の好きなものを悉く否定した。とにかく否定しまくった。絶対化された奴に否定された為に私は自分に全く自信が持てなくなったのである。私の事を否定する為には自分を絶対化する必要があると奴は思ったのだろう。奴は自分がいかに優れた人間か私に言って聞かせた。奴の態度が変わったのは私が奴に対して冷たい態度を取るようになってからである。今まではあの2人は兄弟かというくらい仲が良かったが、私は奴の事が突然嫌いになったのである。私は当時ほとんど奴としか遊んでなかった。その事が物凄く引け目に感じたのである。奴はそんな私の事を許せなかったのであろう。俺には冷たくするのに他の人間には優しくするのが許せなかったのだろう。そこで奴は私に罪悪感と負い目を持つように様々な観念を植え付けたのだろう。そしてその植え付けた観念にもう一人の私が忠実に従うのであった。絶対化された奴と奴に忠実になる私との相互作用で私は何も出来ず、また自分に自信が持てなくなったのである。奴は自分の事を絶対化し、自分がいかに不幸な人間か私に言って聞かせた。それは情に訴えているかのようであった。1+1は10にも100にもなると訴えかけてきた。1人ならば出来ないことでも2人なら出来ると訴えてきた。明らかに自分の都合の事しか考えていなく、私にとってはマイナスになるかもしれないという可能性は全く眼中にないようであった。全く虫酸が走るが、しかし結局私は他人と仲良く出来なくなってしまったのである。かつての旧友とも仲良く出来なくなってしまったのであった。罪悪感と負い目が邪魔をするからである。私の強迫観念の最大の原因は奴に対して抱いている罪悪感と負い目であった。その結果私は何も出来なくなったのである。私自身が私の事を監視して絶対に幸福になれないように私の行動を制限しているのである。奴の復讐をもう一人の私が尋常じゃないくらい恐れているのである。超自我として私自身の視点が内在化されたのである。フロイド流に治療するとなると自分自身の感情に忠実になって自分の欲望を満たす事を許す事になるだろう。超自我に負けない強い自我を築く事になるだろう。私は岸田秀やフロイドの本を読んで問題を解決しようとするんだが強迫観念が邪魔をして本を読めないのであった。もう一人の私が「お前は問題を克服して幸福になってはいけない」と私に語りかけてくるのであった。この強迫観念にはほとほと手を焼いた。お分かり頂けるだろうか。問題を克服しようとすると強迫観念が邪魔するので問題を解決出来ないのである。私はまさに八方塞がり状態になった。それに私の中では奴が絶対化されていた為に岸田秀よりもフロイドよりも奴の方が立場的に上位に立つのであった。「そんな奴よりも俺の方が上だよ」と私の中に巣食う奴が語りかけてくるのである。従ってどんな分析理論を持ってきても奴の存在に書き消されるのであった。しかし、希望はあった。岸田秀とフロイドは分析家である。従って分析するのを邪魔する強迫観念を分析することは出来るのである。それは辛い道のりであった。地面は湿って険しい森の中を歩くかのようであった。それで何故、分析しようとすると強迫観念が邪魔して分析出来なくなるか分析しようとした。私は八方塞がり状態の中で強迫観念とまるで綱引きの勝負をするかのように分析したのである。はっきし言って重要なのは気合いと根性であった。分析しようとすると「分析するな」ともう一人の私が邪魔をするのである。「お前は奴に冷たくした。従って罪人である。だから問題を解決して幸福になることは許されない」と私の邪魔をするのであった。しかし、私は気合いと根性で分析しまくった。その結果問題の根本原因は奴に対して抱いている罪悪感と負い目と絶対化された奴の存在であることが分かったのである。原因はこの3つであった。今では私は自分の感情に忠実になり自分の欲望を満たすことに抵抗はない。今でもいくらか私の中に奴に植え付けられた観念が残っているが昔よりは大分ましになってきた。自分のしたいことが見えてきた。自分のすることに今はさほど抵抗はない。音楽もまともに聴けるようになってきた。こんな音楽だったのかと私は驚いている。今までと聴いてた音楽が違った音色を奏でるのだ。人生が大分ましになったが、しかし、気付いた時にはもう手遅れだ。私はいい歳したおっさんになってしまった。出来る事が限られている。私の中に巣食う奴が「ざまあみろ」と私を笑っているのである。なんとも糞虫酸が走るが現実的に私はもういい歳したおっさんなので出来ることは限られている。過去の後悔もある。しかも集団ストーカーの被害者でもあるのだ。したいことが今は何も出来ない。まるで地獄の人生を生きてるようだ。集団ストーカーには一刻も早く終わってもらいたい。私の人生の残り時間は少ない。こいつらに情はないのか。被害者が好きな事が何も出来ず足掻き苦しんでる姿を見てもなんとも思わないのか。どこまでも非情な奴等だ。もっと早く岸田秀とフロイドに出会えてたら私の人生は変わっていたかもしれない。問題をもっと早く解決出来てたかも知れない。人生を謳歌出来ていたかも知れない。泣けてくる。私を泣かせてくれ。

奴は私の好きなものを否定し自分の好きなものを植え付けてきた。その代表的なのがブルーハーツであった。私はブルーハーツのファンではなかったが奴の事が絶対化され否定されるのが恐ろしかった為にブルーハーツのCDを好きでもないのに買うのであった。私はローリング・ストーンズやレッドホッドチリペッパーズが好きだった。奴はブルーハーツを理解出来ない人間は馬鹿だとか、ブルーハーツは奥が深いと語っていた。それで私は馬鹿にされたくなかった為にブルーハーツの事を理解しようと必死になてブルーハーツを聴くのであった。しかしどうしても好きになれない。私はブルーハーツを聴き1人悶々と苦しんでるのであった。それで私はブルーハーツのCDを机の引き出しの中にしまって封印するのであった。ブルーハーツは10年活動し解散したが甲本ヒロト真島昌利が直ぐに新バンド、ハイロウズを結成した。私はもちろんハイロウズのファンではなかったが、当然の如く私はハイロウズのCDを買うのであった。そしてコンサートにも当然行くのであった。強迫観念が私に「コンサートに行け」と語りかけてくるのであった。で、コンサートに行ったのだが特に好きでもないのに私はコンサートで暴れまくった。信じられないくらい暴れまくった。しかし私はハイロウズが好きではなかった。私は多分ハイロウズに自分の気持ちを分かってもらいたかったのであろう。それで暴れまくって自分をアピールしたのであろう。甲本ヒロトに嫌がらせをしたりもした。ある曲にワーと掛け声から始まる曲があるのだが、そのワーの部分を私に叫ばせてあげると甲本ヒロトが私にマイクを向けたのである。席は1番前の中央だった。それでマイクを差し向けられた私はワーと叫んだのだがマイクが口に当たったために私は汚いので口を拭う仕草をした。私はこの現象は好きな女の子に自分の事を知ってもらいたいが為に敢えて嫌がらせをする心理に近いと思うが、私は死ぬほど暴れまくったのでハイロウズの人達の印象に残ったのであろう。セカンドアルバム、タイガーモービルの中に収録されている曲、ブンブンの中で、「どうか忘れないで、俺は忘れないぜ、達者でなまた来るぜ」と歌ってるのだが、これは私に向けて書いた曲であろう

私は計5回くらいコンサートに行ったのだが、暴れまくったのは最初の2回くらいでそれ以降のコンサートでは信じられないくらい静かになってしまった。私は黙って甲本ヒロトを凝視していた。甲本ヒロトを試すかのように凝視した。甲本ヒロトは気分が悪かったのであろう。それからであるハイロウズの曲風が変わったのは。サードアルバム、ロブスターは松本人志がジャケットデザインを手掛けているのだが多分暴れまくる私を見てあいつはヤバい奴だとびびったのであろう。そこで私よりもある種の狂気を持っていると思われる松本人志にジャケットデザインの依頼をしたのであろう。ロブスターの次に発売されたアルバム、バームクーヘンの中でハイロウズは、「ぶっ壊れてもいいじゃん」とか「カッコいいじゃん、常識外れ、道徳破り」と歌っていた。また二匹のマシンガンという曲では、「夜の宝石を化石に変えて笑ってる2匹のマシンガン」と歌っていたがこの二匹のマシンガンとは私と奴の事である。奴がノリノリでヘッドバンキングする観客を指を指して小馬鹿にしていたのである。そのことを歌った曲であろう。私は別に小馬鹿にしていなかったが私も小馬鹿にしていると思われたようである。私は奴のこういうところが大嫌いであった。また「弱いものは助けたいけど臆病者は鬱陶しいだけ」と歌っているがこれは私のことである。更にハスキーという曲のなかで「歌おうハスキーボイス」と歌っているがこれはセックス・ピストルズジョン・ライドンのことである。というのも私はジョン・ライドンのライブパフォーマンを真似て大暴れしていたのである。それで今まで暴れまくっていたのが突然静かになったものだから上記のことを歌ったのである。松本人志がジャケットデザインを手掛けたロブスターのコンサートには私は行かなかったのである。ただ単にファンではなかったために行かなかったのだが、恐らくハイロウズの人達は私が松本人志にびびってコンサートに来なかったと思ったのであろう。それで、次回作のバームクーヘンの中で「弱いものは助けたいけど臆病者は鬱陶しいだけ」と歌ったのであろう。私はバームクーヘンツアーには行ったのである。奴が頼んでもいないのに私の分までコンサートチケットを買ったからである。私は別に行きたくなかった。バームクーヘンはノリノリでパンクビートのアルバムであったが私は全く暴れないのであった。甲本ヒロトは私を見つめ何でかつてのように暴れないんだと訴え欠けているようだった。真島昌利が「ぶっ壊れてもいいじゃん」と絶叫する。しかし私は暴れない。正直ファンではないからだ。コンサートも後半にさしかかり会場もヒートアップするなか私は突然何かが弾けとんだように暴れまくった。何もかもぶち壊すぐらいに暴れまくった。何で暴れないんだという甲本ヒロトの気持ちは私に確かに伝わっていた。何か暴れないと悪いような気がしたのである。そしてコンサートが終わりハイロウズのメンバーが帰り際に甲本ヒロトが私に笑顔で手を振っていた。非常に嬉しそうに手を振っていた。しかし私は無視した。ハイロウズに私が奴の言いなりになってると分かってもらいたかったのであろう。自分の気持ちを分かってもらいたく、敢えて冷たくしたのだろう。私は甲本ヒロトの期待に応えることはなかった。バンドのメンバーはやはり落ち込んだのであろう。それで次回作のリラクシンではバームクーヘンとは対称的に雰囲気が全体的にメローなアルバムになってしまった。松本人志主演のテレビドラマ、伝説の教師の主題歌になった青春が収録されているが、そのアルバムの中に、やだ、という曲があるが、これは私のせいでロックを純粋に楽しめなくなった憂鬱を歌った曲であろう。その後私はハイロウズのコンサートに行くことはなかった。ファンならば気付いていたであろうハイロウズの異変に。実は私のせいでハイロウズは変わったのである。多分私は自分だけが不幸なのが我慢ならなかったのであろう。ハイロウズを私と同じ不幸に陥れたかったのであろう。そして洗脳されてた辛さをハイロウズの人達に分かってもらいたかったのであろう。リラクシンの次に出したアルバムの中の収録曲に、恋のダイナマイトダンスという曲があるのだが、甲本ヒロト作詞作曲の曲だが、その曲の中で甲本ヒロトは「あんな気分はもうたくさん」と歌っていた。相当追い込まれていたのだろう。私のせいだ。しかし、私も八方塞がりになるまで追い込まれていたのだ。たかがあれだけの事で弱音吐くなよと思ったのであった。結局ハイロウズは2枚目のアルバムタイガーモービル以降調子を取り戻すことはなかった。そしてデビューして10年で解散してしまったのであった。私のせいである。私が嫌がらせをしなければ解散することはなかったと思う。私はこの問題に関して蹴りを付けたいと思っておりハイロウズのメンバーに直接お会いして話をしたいと思っていた。奇跡的にこのブログを読んでくれているといいが、何度も説明した通り集団ストーカーは誰もが知る犯罪なのである。従って私の存在はどうも有名人も知っているようで、松本人志から仄めかしが沢山あったし、甲本ヒロト真島昌利からも仄めかしがあった。だからひょっとするとこのブログを読んでいるかも知れない。そうだと嬉しいが、私の気持ちが伝わってくれたら良いと思う。正直なところ私も尋常じゃないくらい追い詰められていたのである。その気持ちを誰かに分かってもらいたかったのである。奴の悪口を言うのは当然の如く禁止事項であり、私は誰にも不満をぶちまけることが出来ず1人悶々としていたのである。私が思うに甲本ヒロトは私と同じ精神状態になったのであろう。つまり私の視点が超自我として内在化されたのだと思う。それで私と同様、罪悪感と負い目を持つことになったのであろう。バームクーヘンの罪と罰という曲の中で「 誰かに疑われる前に、洗いざらいぶちまけてやる、罪ならば全部認めるが、罰を受けてる暇はないぜ」と歌っている。私が奴に対して罪悪感と負い目を持つ羽目になった為にその私の罪悪感と負い目がハイロウズ、特に甲本ヒロトに移植されたのであろう。それはそれは辛かったであろう。私自身が超自我に苦しめられてきたので分かるが、自分が原因で甲本ヒロト超自我に私の視点が内在化されたわけで、だから変な話だが気持ちは痛いほど分かるのである。その後、ハイロウズは解散して甲本ヒロト真島昌利クロマニヨンズを結成するのだが名曲は沢山あるが、かつての頃のように純粋にロックンロールを楽しんでいるとは思えない。ハイロウズ時代に、有名、という曲を書いているのだがその曲の中で「透明人間はやだ、認められたい」と歌っているのだがこの曲もまた私の事を歌った曲であろう。また、不死身のエレキマンという曲があり、その曲の中で、「ああ、自分が自分の世界の主人公になりたかった。子供の頃に憧れていたものになれなかったなら大人のふりすんな」と歌っているがこれも私に向けて書いた曲であろう。しかし、私が思うにこの曲は私よりも、奴にこそ相応しい曲である。奴は自分の事を絶対化していたが、自分のことを理解してもらいたい、知ってもらいたいという気持ちが誰よりも強い男であった。自己評価が異常に高く、私にいつも自分がいかに優れた人間か言って聞かせたとは既に説明したが、私に振り向いてもらいたかったのであろう。しかし、私は奴の期待に応えることはなかった。奴は自分を絶対化していたくせに結局何者にもならなかった。芸人を目指してようだが芸人にならなかった。それは自分の才能に限界を感じていたからであろ。ネタを見せてもらったがそのネタは関西人でもないくせに関西弁を使いダウンタウンのパクリで全然面白くなかった。従って上記に挙げた曲は私よりも奴にこそ相応しいのである。恐らく奴のコンプレックスが私にとりついたのであろう。そのコンプレックスをハイロウズは見抜いたのであろう。とにかく奴は自分に興味をもてと奴は必死であった。奴のせいでもあるが私はハイロウズに謝りたいと思っていた。しかしもう一度繰り返すが私も死ぬほど追い詰められていたのである。にっちもさっちもいかなかったのである。そしてその気持ちを誰かに語りたいのを強迫観念が邪魔をして誰にも語ることが出来なかったのである。今ではこうしてブログで不満をぶちまけることが出来ているが20年以上に渡って私は誰にも不満をぶちまけることが出来なかったのである。その苦しみを分かってもらいたかったのである。甲本ヒロト真島昌利は音楽界では知らぬ人間はいないくらいの有名人だが、ブルーハーツ時代にはちょっとしたセンセーションを巻き起こしたが音楽業界の人間も彼等2人の異変ぶりには気付いていたであろう。彼等の変容ぶりが音楽業界ひいては社会全体にいくらか影響を与えたことがあったかもしれない。私も業の深い人間で彼等2人を変えたのは俺だよと密かに優越感に浸っているのである。我ながら救いようもないが、しかし、この問題を決着させたいという思いがあるのもまた事実なのである。何か創作活動をして彼等2人に認めてもらいたいという気持ちもあるのである。奴はあれだけ自己評価が高かったくせに結局何者にもなれなかったのだからただのホラ吹きであろう。奴に勝つためにもハイロウズに認めてもらう為にも何か事を起こしたいと思っているのである。罪と罰の中で「結局何もやらないなら重罪」と歌っているがこれもまた私に向けて歌ったのだろう。私が何か創作活動をして二人に認められた時にこの問題は解決するのであろう。ハイロウズにはすまないことをしたと思ってる。ハイロウズを解散に追い込んだのは私であるのである。すまぬ事をした。

不死身のエレキマン
https://youtu.be/i4OqESp3PlE

二匹のマシンガン
https://youtu.be/o6kysKeP3c0

ハスキー
https://youtu.be/eLu02fNBBTM

ガタガタゴー
https://youtu.be/OP29F7e6lM8

青春
https://youtu.be/ZgMBSuMkx0E

視点死刑 負い目と恐怖

私が彼に対する負い目が原因で何も出来なくなったと前の記事で説明したが、私が自分の人生を楽しもうとすると負い目が湧いてきて何も楽しめないのであった。この負い目は辛いものであった。
彼は事あるごとに自分がいかに不幸な人生を歩んできたか私に語った。これはもちろん私に負い目、或いは罪悪感を植え付けるためであったが私は何か彼の事が可哀想になり自分だけ楽しむことに負い目を感じるのであった。勿論彼はそれを計算して私に自分がいかに不幸か語り私が負い目を感じやすい人間に仕立てたと思われるが、彼は自分の気持ちをわかってもらいたがってる様子であった。彼は自分を絶対化すると同時に自分がいかに不幸な人間かを語るのであった。従ってわたしは彼に対して負い目と罪悪感を感じるようになったのである。絶対的存在者として私の前に君臨する彼は私に罪悪感を与え、不幸な彼は私に負い目を与えるのであった。彼はどう考えても私を縛り付けて置くために罪悪感と負い目を与えたと思われるが私は彼の策略にものの見事にひっかかったのであった。彼の目的は私の事を縛り付けて何もさせないようにすることだったと思われるがその策略はものの見事に成功したのである。

彼はそれ以外に私に恐怖を植え付けた。彼は事あるごとに私を否定した。私は彼に反抗できなかった。彼に反抗的態度をとるのは恐ろしいからである。私が何か人生を楽しもうとすると自分の中に恐怖が走るのであった。それで何かしようとする度に私に恐怖がはしるのである。とにかく彼は恐らく劣等感と嫉妬心の塊で私が人生を楽しことが耐えられないようであり、そこで私を縛り付けて置くために、罪悪感、負い目、そして恐怖を植え付けたと思われるのである。私は自分が何も出来ない事の原因にこれらの事が関係してると思われるが、恐怖を感じてる自分を認めたくないことが私をして何も出来ない人間になった最大の原因であった。つまり彼に責められ否定されることが原因というよりも彼の圧力に屈し彼の事を恐ろしいと感じる自分を認めたくないということが私が何も出来なくなった第一の原因であった。私は彼に反抗したかったが何も殆ど反抗できなかった。私は直接彼に文句を言えないものだから頭の中でしょっちゅう彼の悪口を言っているのであった。これは強迫染みていた。ことあるごとに彼の事が思い起こされその度に彼に対して頭の中で彼に対して悪口を言っているのであった。本当は私は彼に直接悪口を言いたかったのであるがそれは恐ろしくて出来ない。それで一時的なストレス発散というかその場しのぎの為に頭の中で彼に悪口を言うのだが、これはいつまでも経っても消えないのであった。直接彼に悪口を言い返すか別の友達に文句を言わない限り消えないのであった。

彼は私に自分の存在を理解してもらいたく必死であり、自分の元から私が離れていくことを極端に恐れているようであった。彼は私の友人関係も否定しにかかった。私の友人を否定して私の元から友達を引き離そうとするのである。彼は自分が孤立することを恐れていると同時に私に友達がいることに嫉妬していたのであろう。彼は誰といる時でも「俺は仮面を付けて生きている」と語っていたから誰とも繋がりを感じる事が出来ないのであったのであろう。それで友達のいる私に嫉妬して関係を引き裂こうとしたのであろう。

精神分析の教えに従うと神経症の原因は恐怖の対象となる真の原因を抑圧して別のもっともらしい原因を持ってきて病的症状とその偽の原因とを繋げているから起こると考えるがこれは私にも恐らく当てはまると思われる。

真実の原因は彼に怯えている自分を認めたくないことであり突き詰めて考えると自分の側に原因があり自分の無力さを認めたくないということにあるのであり、彼の側に原因があり彼を責めているだけでは何も解決しないのであった。この真の原因、認めるのが苦痛な真の原因を凝視しないことには何も解決しないのであった。しかし、それは私にとっては酷い苦痛であり酷い無力感を引き出すのであった。でも、その事実を認めない限りは神経症の解決は不可能であった。

今は昔と違ってその恐怖の根元を凝視できるようになってきたが、いまでも彼に対する悪口は消えない。神経症はまだ治っていないのである。

あともう1つ負い目を感じる原因の1つに彼と一時期仲が良かったこと、彼との関係が実質破綻しても一応それなりに楽しい思い出があることがあったからだと思われる。彼との関係が破綻する以前には彼とは非常に仲がよく遊んでいたし1番の友達であった。その後私が彼といることが嫌になり関係が破綻したわけであるが、彼は私との関係を必死に繋ぎ止めようとし、それは私には重荷以外の何物でもなかったが彼の圧迫に屈し関係を続けなければならなくなったのである。しかし、そんな出鱈目な関係でもそれなりに楽しい思い出があるのであった。繋がりは欺瞞的だがほぼ毎日遊んでたしそれなりに楽しい思い出があるのである。
で、そういう楽しい思い出が負い目となり彼の元から離れることが出来ないのであった。

私は彼との付き合いが重荷であった。彼とは付き合いたくなかった。しかしそれは今まで説明した通り無理なのであった。

私が神経症になった原因は負い目と罪悪感をかんじてること、そして彼に恐怖を感じていること、彼に反逆出来なかったことにあり私の無知と弱さが原因であるが神経症の解決は難しいのであった。

私がもっと強く賢かったら神経症になることはなかったであろう。もっと楽しい人生を歩めたであろう。私は何も出来なく約25年を生きてきたわけで楽しい思い出がほとんどない。20代はまさに暗黒期で地獄のような人生であった。あの時ああしてれば、こうしてればばかりで過去は後悔と共に甦る。非常に辛い人生だが現実を受け入れる他にないであろう。

視点死刑 罪悪感

私は罪悪感を感じやすい体質なのだがそこを利用されて罪の意識を植え付けられたと思う。
この罪悪感がとっても厄介で何をするんでも罪悪感が顔を出して邪魔をするのであった。
例えば女を作りたいと思えば罪悪感が発生して作れないのであった。勿論私は彼に散々人格を否定され続けてきたわけで単純に彼に攻められる事を恐れて何も出来なくされたと思われるが私が何も行動に移せない原因の1つに罪悪感が強い影響力を持ってしまったと思われる。

彼は私には存在を肯定してもらいたがってた。しかし彼に私は興味がないわけで彼はそんな私にイラついているようであった。
彼は私にその存在を肯定してもらいたく必死であった。当時の私には彼が何故そこまで混乱し必死なのかわからなかった。
たかが、私に冷たくされただけで何故そこまで必死になるのであろうか?私が思うに彼は私との関係性の中で安定した自我を築こうと画策したのであろう。仲がよかった頃はそれで自我が安定していたのであろう。しかし、彼は学校の中でもそんなに上手くいってないようだったし、家族の不満もよく聞かされていたので彼にとっては恐らく私との関係性がほとんど全てであったのだろう。それで私に冷たくされ関係性が崩壊したから自我の安定が崩れたのであろう。そこでもう一度私との関係性を良好に築く為に私に振り向いてもらいたかったのであろう。しかし、1度気分が冷めてしまったら昔みたいに彼の事が好きになることはない。そこで彼は自分に振り向いてもらいたく私に罪悪感をうえつけようとしたのであろう。彼は私の事をありとあらゆる手を尽くして私の事を否定しにかかった。私の人格や趣味などを否定するのであった。そんなことが長く続けば彼に注意を向けずにはいられない。彼の事が気になって仕方がない。私は最初は彼に冷たくした時に何の罪悪感も負い目も感じていなかった。しかし彼にありとあらゆる事を否定されてから彼に対して負い目をもつようになってしまった。更に彼は自分の存在を私の中に植え付ける為に自分の事を絶対化した。私は彼の策略にものの見事に引っ掛かり彼の事が絶対的な存在に見えてくるのであった。

私に罪悪感を植え付ける為に自分を絶対化するのは絶対条件であった。何故なら罪悪感を植え付ける為には自分が正しく自分自身を正当化する必要があるわけである。自分自身に正当性があり間違いがなく完全に正しくなければ罪悪感を植え付けるのは難しい。彼は事あるごとに私に自分がいかに優れた人間かを言ってきかせた。私は無意識レベルでは彼の言っていることを信じておらず疑っていたのだが意識の表面では彼の言葉を鵜呑みにし彼が絶対的な存在に見えるのであった。従って彼が否定した数々のことは私に罪悪感を植え付けるのには充分であった。

彼は私に自分の好きな物を押し付けてきた。私にはそれが重荷で仕方がなかった。私は彼の押し付けてくるものには興味がなかった。しかし、彼は押し付けを止めなかった。私は彼の押し付けに屈してしまい、彼の押し付けたものを取り入れるのであった。
ある時彼は私に宮崎駿紅の豚を私の家に持ってきて今すぐこの映画を見てくれと言ってきたことがあったのだが、私は後で一人で見ると言っても彼は私の言うことを聞かないのであった。私は何度も何度も後で一人で見ると言っても全く聞く耳をもたなかった。それで仕方がなしに紅の豚を見ることにした。そんな状況では映画なんか楽しめるわけはないのである。彼は私の事を信じていなかったのであろう。紅の豚を見ないと思ったのであろう。何故紅の豚を見せたかったかは謎だが私は彼の押し付けが息苦しくて仕方がなかった。

この視点死刑が厄介なのは事あるごとに彼が顔を出すのであった。何かに集中してる時、何か考え事をしてる時、何も考えずぼーとしてる時等にいちいち彼が顔を出すのであった。これは一種のフラッシュバッグ現象であるがこのフラッシュバッグ現象が上手く機能する為には罪悪感を植え付けるのは必須であった。私の中に「お前は間違っている。俺が正しい」という観念が巣くっておりこの観念は強力でそう簡単に弾き出すことの出来ぬものではなかった。彼は被害者意識が強かったのだろう。自分は間違っていないと思いたかったのだろう。正当性は自分の側にあり私が間違っていることにしたかったのであろう。その為に彼は自分を絶対化し私を裁きたかったのであろう。彼は自分の正当性を証明する為に間違ったやり方にでたのであった。(つまり彼はただの普通の人間に過ぎないのに自分を絶対化し私を騙そうとした)そして彼自身もその事をしっているのであった。彼はある時私には「お前は何も考えないよな」と言ってきたがこれは私に俺がなぜお前に対して冷たく当たるのかを考えろと言っているようであった。しかし、これは無理な要求であった。私は無意識的には彼の魂胆、意図を見抜いていたし、そんなことを言われれば腹がたつのだから彼の意向にそうことはなかった。

私は自分の人生を満喫したかった。自由を満喫したかった。しかし罪悪感が邪魔をして何も出来ないのであった。そうして私は若い頃に何も出来ずに過ごし、気付いたらいい歳したおっさんになっていたわけである。後悔が物凄く過去を振り返れば無駄に時間を過ごしてしまったと思い悔恨の念に取り付かれ泣きそうになるのである。

私がもうちょっと強く賢かったらこんな目にあわずにすんだであろう。それなりに充実した青春時代を過ごせたであろう。彼に反抗出来たであろう。全ての原因は私が弱いことであり、そして弱い自分を認めたくないことと、彼の抑圧的な態度に屈した屈辱感を認めたくないことにあった。仮に私が彼に批判されたときにその都度言い返せてれば彼が絶対的な存在として君臨することもなかったし奇妙な観念が内在化することもなかったし罪悪感や負い目を感じて人生が制限されることもなかったであろう。友達と有効な関係を築けたであろうし彼女も若い頃に作れたであろう。実に悔しい限りである。

時は戻らない。甘んじて現実を受け入れる他にないのである。