狂人日記

ある男の人生記録です

自我の危機

人間の自我はまず両親の模倣から始まる。
まともな両親の元に育ちまともな教育を受けて育つならばなんら問題もない

ところが俺は片親育ちでしかもその母親がまともな人間ではなかった。

最初子供は親との関係で作られる世界がほぼすべてで親が感じるように子も世界を感じとり、親が見えるように世界が見える。そして子はそれが当たり前だと思って育つ。

母親との比較の対象というものがあれば俺の場合また違ったのだろうが親父がおらず母親の世界が全てであった。

これが第一の不幸であった。親一人、子一人だった。兄弟がいればまた違ったかもしれない。

変わり者の母親の元で二人きりで生きて来たのであって、その生活はどうかんがえても普通ではなかった。まともな教育、教育らしい教育も受けた記憶もない。

人間の自我には立脚点が必要でそれが物を見る基準好みや趣味を図る基準、そして他人との繋がりを保障する基準になる。

人間生きるために立脚点が絶対に必要で子は主に親を模範とし立脚点を獲得するのでへんな立脚点を持っている親の元で育った子供は変な立脚点を獲得してしまう。

で、俺は変な親の元で育ったから変な立脚点を獲得してしまったのであった。おまけに俺は母親から愛情らしい愛情も受けづに育った。しかも片親で二人暮らしであることが強い引け目としてあった。さらに片親だからそんな親に愛されずに育った為に見捨てられる恐怖もあった。
つまり、俺は変な立脚点をもち親の愛情に飢えていて見捨てられ恐怖持ちの変な人間だったのだ。

もちろん親と楽しく会話することもあったし、友達との楽しい思いでもあるにはあるがどこかいつも不安で孤独感のある子供であった。

これは歳をある程度とってから自分自身を分析して気付いた欠陥で子供のころは自分はまともな方だと思っていた。
他の家の子供とそう大差ないと思っていた。
おとなになって振り返ってみるとおかしな点がたくさん見えてきたということである。
子供心に自分と親はなんとなくおかしいのではないか、他の家庭とは違うんではないかという疑いがあるのであった。
しかし、そのことは意識の表面までは登ってこず前意識的になんとなく感じていることであった。

なんとなく他の家庭の子供達が羨ましい、なんとなく普通の家庭の子供たちと違うのではないかという疑い、疎外感、孤独感、孤立感があるのであった。

中でも孤立感が最高に強かったと思われるが、この孤立感ってやつが肉体的危機、精神的危機に陥ると顔を出すのであった。

普段は抑圧されて意識まで登って来ない物のなかで最高のものがこの孤立感であって、何かをきっかけにして意識まで登って来たときに強い孤立感に襲われるのであった。

孤立恐怖がいかに恐ろしいものかは味わったことのある人間にしかわかるまい。

昔あるドキュメンタリー番組で精神病院の特集があって観てたが、ある患者と医者がベンチに座って話をしていたときに医者が何か用でベンチから離れようとしたときに、その患者が医者が自分の元を離れるのが恐ろしくなりそのまま地面にへたりこんでしまった。
その番組を観たときにあの患者はもう一人の自分だとおもった。自分もそれだけ強い孤立恐怖、見捨てられ恐怖を持っている病人であった。

この孤立恐怖にはほとほと手を焼いた。例えば友達と二人で要るときに友達がトイレに立つと強い見捨てられ恐怖が発動し自分もトイレについて行きたくなるのである。
孤立恐怖症は何故ここまで恐ろしいのか、克服しがたいのであろうか。