視点死刑 視点と葛藤 何も楽しめなくなる
彼の中傷、誇大妄想的自惚れに屈服してから私は葛藤に捕らわれ何も楽しめなくなる。
ブルーハーツ的葛藤の項でも書いたがこの葛藤が他の事にまでずらされて再現されるのである。
例えば、彼はとんねるずとダウンタウンの大ファンであったが、とんねるずとダウンタウンの番組を視ると彼の植え付けられた視点が邪魔をして純粋に番組を楽しめなくなるのであった。
彼の認めたものだからこれ等のモノは良いものに決まっている、理解でいない奴はバカなのだ。面白くて当然、笑っても当然である。
別に私もとんねるずとダウンタウンは嫌いではないから番組があればそれなりに楽しんで観るのではあるが純粋に楽しんで観れない。『彼のわからない奴はバカだ』という視点が邪魔をするのであった。
笑うことは笑うのだがどこか自信のない笑い、心の中を監視されているような、ぎこちない笑いであった。これが、彼が自分の側にいて自分を試すような視点を常に私の側に送りながらのことなら、わからなくもないが周りに誰もいない一人のときでもそうなのであった。
監視カメラで常に監視されているのと違って、心の中を常に監視されているような状態であった。
最初は症状もそれほど大したことがないというかまだ幾ばくはかの精神的余裕のある状態でいくらかは自由に友達と楽しんで談笑できたりしたのだが徐々に精神的余裕がなくなる状態まで追い詰められていくようになる。
この葛藤にはほとほと苦慮させられた。何も楽しめないんだから、何か楽しいこと、共感を覚えることに遭遇すると咄嗟に私の中に植え付けられた彼の視点が邪魔をして楽しさや共感を打ち消すのであった。
ブルーハーツ的葛藤もまだ完全に克復出来たわけではない。今でも好きなもときらいな者との間に葛藤がある。何がほんとうに好きで、きらいかよく分からないのである。
今イギリスのロックバンド、ザjamのベストアルバムを聴きながらこの文章を書いているが、jamの、曲が本当に好きか嫌いか今一よくわからないのである。
そして、彼によって植え付けられた視点はあらゆる場面で私の足を引っ張る事になるのであった。
こうして私の人世は徐々に崩壊していくのであった。